大神社展 | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)



「神の二つの様相」(大神社展 雑感)

 渾然一体としたプリミティブな様式から、時代が下っていくに連れ、二つの様相が現れてくる。微に入り細に入り手の込んだ工芸品/奉納品の細工性と、精魂を込めて彫られた神像に現れてくる精神性だ。

 もともと、神道には像を彫る伝統がなかったから、これは、神道美術と仏教美術との違い、ひいては古来からの日本美術とインド/中国を経て伝わった美術の違いのようにも思えてしまう。でも、この問題はもっとシンプルなものだろう。つまり、神に捧げるものと、神そのものの描かれ方の違い。

 神像には、神が宿らねばならぬ。そこに神の精神が入り込み、そして、その精神に人々が感応する。神の精神を宿すためには、神の精神と適合しなければならない。依り代に求められるのは、細部の細工よりも、それが持つ霊性であろう。

 これはまた、レゾリューション(解像度)の問題として捉えることができるかも知れない。解像度が高すぎると、神の精神が入る隙間がなくなる。リアル(写実的)な像は、それ自体がリアル/現実に言及してしまうから、依り代になるのは不可能となる。

 たとえば、解像度が高いものとして、写真を考えることが出来るだろう。それは、あらゆる意味で現実にしか言及することが出来ない。写真には神や仏が宿ることがない。「遺影」という形で、過去の現実を介し、言及することはあったとしてもね。それは、まさしく文字通りの意味で「影」なんだ。

 少し話が逸れた。

 一方、工芸品/奉納品は、でき得る限りの解像度が求められる。神像が神の精神を宿すための容器であり、その内部と、神の精神への適合性こそが重要であるのに対して、奉納品では、その外部の精細さこそが重要だ。

 蒔絵手箱のような、それ自体が容器のように捉えられるものであっても、それが開けられた時の外部(内側の外部)が重要だ。この意味での内部とは、神像における内部とは決して同じではない。基本的に、神像は「開けられる」ことを想定されていない。

 金や宝石/螺鈿が用いられる奉納品は、一見、向こう側の世界に言及するように思える(絵画においては、一般に金地は「この世界のどこにもない場所」を表わす)。神々の下に届けられるという意味では、それは確かにそうなんだけど、しかし同時に、その精緻な解像度は現実世界に言及する。

 写真はその解像度のゆえに現実世界に言及する。奉納品もまた、その精緻さが神に対する奉仕を表すと同時に、その精緻な解像度が現実世界に言及する。あれは、言ってみれば現実世界の(ミニチュア、ミニアチュール的)写しなんだ。それは、現実世界を縮小して神々に献上しつつ、向こう側の世界と現実世界を橋渡しする。

 神像=精神のものが「向こう側の世界」を呼び込もうとするのに対し、奉納品=手のものは「現実世界」を写し取り、それを神々に献上しようとする。前者が神々の世界から現実世界へという方向性があるのに対し、後者は現実世界から神々の世界へという流れが見て取れる。

(神道はあらゆるものに神が宿ると考えるから、この構図は当てはまらないように思えるかも知れない。でも、高天原や黄泉など、神道の世界観にも「向こう側」という概念は存在する)

 しかし、結局のところ、(メタレベルで考えれば)その両者は共に現実世界にしか存在し得ないわけだから、その違いは解像度に現れる。かたや精神の芸術として全体の雰囲気=アウラが重んじられるのに対し、かたや手の芸術として細部の緻密さが重んじられる。

(これは、ボクが「バーンスタイン的なもの」と、「カラヤン的なもの」と呼ぶ区別に対応する。あるいは、精神による芸術と、手/技巧による芸術の違いと呼んでいいかも知れない)

 思えば、西洋絵画が写実的で高精細な絵(解像度の高い絵)を描くようになったのは、神の世界が崩壊し始めてからだった(そして写真が登場して、絵画は抽象へと向かった)。