アメリカの夜(阿部和重) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


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『アメリカの夜』
阿部和重
(1994)

概要
 映画学校を卒業し、アルバイト生活を続ける中山唯生。芸術を志す多くの若者と同じく、彼も自分がより「特別な存在」でありたいと願っていた。そのために唯生はひたすら体を鍛え、思索にふける。閉塞感を強めるこの社会の中で本当に目指すべき存在とは何か?新時代の文学を切り拓く群像新人文学賞受賞作。(Amazonより)



感想

1.ボクの作家

 「ボクの作家」を探していた去年のプロジェクトは、じつは7月時点で終了していたのかも知れません。阿部さんは、ボクとは同世代ではありませんが、それにも関わらず、なにか「ボクの作家」だという感じがします。

 これまで、その理由がいまひとつ明確ではなかったのですが、彼のデビュー作『アメリカの夜』を読んで、少し分かった気がします。「人は処女作ですべてをあらわす」とは、どこだかの解説で、上野千鶴子さんが書いていた言葉でした。もちろん、それは彼女オリジナルの言葉ではないでしょうけれど。

 「アメリカの夜」は、まさに阿部作品の序章と言える作品でしょう。ここには、彼の問題意識が、もっとも凝縮した形で現れている気がします。一言で言ってしまえば、それは、「語りの視点」という問題です。そして、それこそ、ボクが阿部さんと共有するものだったのです。


2.フリしてマネして

 この小説が始まってほどなく明かされるのは、この小説の語り手が、主人公である「中山唯生」の、もうひとつの人格であるということです。二重人格とは、本来の意味では「二つある」というところに力点があるのでしょうが、それにも関わらず、それが「一つ」の身体の内にあるということが、阿部作品では重要になってきます。

 小説世界の全体を統べる語り手でありながら、一方でその世界のプレイヤーでもある、というこの構図は、テーブルトークRPGにおけるゲームマスターとプレイヤーとを、ひとりで兼ねているようなイメージです。

 小説『ロードス島戦記』という形に結実したテーブルトークRPGでは、プレイヤーがキャラクターになりきってゲームを進めていきます。それと同様に、『アメリカの夜』の主人公である中山唯生もまた、キャラクターになりきって物語を進めていくのです。そして、この構造はそのまま、語り手(=ゲームマスター)である阿部さん本人が、小説の主人公になりきって物語を進めるということにスライドしていきます。

 映像出身の阿部さんにとっては、これは監督が同時に演技者でもあるという感覚に近いかも知れません。すなわち、作者の阿部さんが語り手である「重和」を演じ、「重和」の分身である「中山唯生」が「ブルース・リー」を演じるというように、語り手の視点が無限に増殖されていくのです。

 そして、「中山唯生」(プレイヤー)と「重和」(語り手)という二重人格の主人が「中山唯生」だという設定のため、ここでは、演じるものと語るものの主従が逆転されています。このことによって、この世界は虚構と現実の間がないまぜにされていきます。虚構のものである筈の物語上のキャラクターが、小説という現実世界の書き物に影響を及ぼしていくのです。この小説そのものが、(語り手ではなく)演じるもの≒演じられたものによって構築されていくという構造が、そこには示唆されています。

 語り手が「世界の外」に君臨していることが出来ず、「世界の中」に引きずりこまれてしまうということ。世界の支配者である自分自身が、同時に、世界の中のいちプレイヤーに過ぎないということ。そして、プレイヤーによって演じられた個々のキャラクターが世界そのものを構築していくこと。これが阿部作品の根幹をなす概念です。


3.阿部作品の諸相

 ボクが阿部さんの作品の中で『シンセミア』や『ピストルズ』のような、群像劇系の長編を高く評価するのは、上に述べたような構造が小説自体に現れているからです。それに対して、一人称的な視点を持つ中編は、演じられたキャラクター自体しか目に入らず、その構造が見えません。

 しかし、『インディヴィジュアル・プロジェクション』や『ニッポニアニッポン』、そして『グランド・フィナーレ』といった一人称的な視点を持つ中編小説群も、そういう役柄を「演じている」と考えれば、また別の側面が見えてきます。すなわち、これらの作品はテーブルトークRPG全体ではなく、そのいちプレイヤーとしての視点から描かれたものだということです。そして、まさに、このことに意識的であろう阿部さんは、「サーガ」という概念で、自らの著作群を関連づけているのです。

 一人称的な視点を持つ中編小説において、そうした構造は(群像劇とは違い)小説それ自体には埋め込まれておらず、阿部さんの他の作品との関係性の中で見えてくるものだったのです。いまから考えれば、はじめに『アメリカの夜』を読んでおけば、それらの評価もまた、違ったものになったかも知れません。

 そういう観点からすると、芥川賞を受賞した『グランド・フィナーレ』もまた、彼があるキャラクターを演じているに過ぎません。メタレベルで云えば、それは「芥川賞を狙うキャラ」なのかも知れませんが、それで本当に賞を獲ってしまう辺り、彼の才能なのでしょう。

 でもそれは、ある意味では悲劇だったと思うのです。広大なサーガ世界の中の、とあるキャラクターを演じただけの『グランド・フィナーレ』が、彼の代表作のように受け取られることになってしまったのですから。ボクの同級生に、文学部卒で小説に詳しいのがいるのですが、彼もまた『グランド・フィナーレ』にはピンと来なかったようでした。

 彼のように、『グランド・フィナーレ』から阿部作品に入った人は、あれを阿部和重の全てだと考えてしまうかも知れません。そして、「もう、阿部和重はいいや…」と思うかも知れないのです。

 しかし、本来、あれは単体では完成しておらず、他の作品との関係性の中で評価されるべき作品だったのです。ですから、これから阿部作品に入ろうとしている人には、まず、この『アメリカの夜』から入ることをオススメします。この作品には、のちに『シンセミア』や『ピストルズ』で結実する阿部作品のサーガ的、多面体的エッセンスが詰まっています。