『違和感2:原子力規制に関するetc』
1.違和感の所在
原子力規制委員会の有識者調査団が、各地で活断層を認定し、電力会社がそれに反発するというニュースが、連日のように流れています。あたかも、脱原発派と原発推進派(ここでは再稼働派)の争いが、ここに土俵を移したかのようです。
前にも書いたように、反論したければどんどん反論すれば良いというのがボクの立場です。ただし、あらかじめ誤解のないように言って置きますが、ボクは「怪しい」原発はどんどん廃炉にすれば良いと思っています。原発維持の立場だからこそ、不確実な要素は極力に排除せねばならん、というのがボクの考えです。
しかし、その一方で、この有識者調査団の動きには、以前から違和感を覚えていました。当初に覚えていた違和感は次のようなものでした。ある会議では(活断層の)「可能性を否定できない」という文言だったのが、次の会議では何の断りもなく、「可能性は高い」という文言になっていたりする。「ゼロではない」ということと、「可能性が高い」ということの間には、本来、越え難い溝がある筈なのに、それを易々と乗り越えてしまう。
しかし、それは別に構わんのです。それくらいの印象操作は原発推進派もしてきたでしょうし(まあ、いまそんなことをすれば徹底的に叩かれるでしょうが)。有識者調査団自身が、どうも脱原発派なのではないかという雰囲気があったとしても、それはそれで別に構わんでしょう。規制する立場が推進派だったということが、これまで問題を生んできたという観点からすればね。
だからこそ、この問題は、これまで記事にはしてきませんでした。しかし、ここに来て違和感の正体が見えてきたように思います。ボクが感じている違和感の正体は、上述したものとは、もう少し違う種類のものでした。それは、活断層を認定する「手順」の問題です。
2.裁判の手順
この手順を簡単に概観してみましょう。まず、規制委の調査団が評価を出します。それに対し、電力会社側が専門家を立てて、反論をします。ここまでは良いでしょう。しかし、このあとの過程にボクは違和感を覚えるのです。4月18日付けの時事通信の記事を引用してみましょう。
調査を行った原子力規制委員会の専門家検討会は18日会合を開き、東北電から意見を聴いた。同社はこれまでと同様に活断層の存在を否定したが、規制委の島崎邦彦委員長代理は、同社の主張を認めた旧通商産業省の判断について「われわれは変えるという認識を持っている」と述べ、事実上受け入れない考えを示した。(時事通信)
つまり、調査団側(規制委)が最終的な判断を下しているのです。これって、なにか引っかかるものがあります。だって、このやり方で行ったら、99%反論は通りませんよ。なんせ、反論される当の立場が判断を下しているのですから。
つまり、こういうことです。調査団が、<被告=原発敷地>を追求する検事だとしましょう。ここで被告が有罪だということは、すなわち、そこに「活断層がある」ということになります。一方で、電力会社の用意する専門家は、原発敷地を弁護する弁護士です。彼らは、そこには「活断層がない」ということを主張するでしょう。
「電力会社が連れてくる専門家なんて、信頼できん」という意見もあるかも知れません。でも、そんなことは、ここでは問題ではないのです。裁判というシステムは、検事と弁護士のどちらが正しい人かではなく、どちらが説得力のある議論を展開できるか否かを争うシステムだからです。したがって、問題は、その裁判が正当な手続きで行なわれたか否かの一点につきるのです。
そして、この「原発敷地裁判」の最大の問題点は--繰り返しになりますが--最終的に、調査団自身が判決を下しているということです。それって、どう考えてもおかしいでしょう。検事である調査団が判決を下すのならば、99%、求刑通りの判決が下されますよ。つまり、この裁判には、判事(裁判官)がいないのです。
ましてや、現在は裁判のルールそのものも規制委が作り、しかも自由に変更(12万年→40万年)出来ているような状態です。検事がルールを自由に変えることが出来て、しかも、判決まで自分で下せるという社会が、どういう状態の社会かを思い描いてみれば、これが異常事態ということが理解できるでしょう。
もちろん、脱原発原理主義者ならば、システム云々より、「どんな手段を用いてでも」原発を停めるのが正義だと考えるでしょう。しかし、警察国家というものは、いつもそうした要請から生じるものだということに思いを巡らせるならば、それは危険な考え方だということに気付く筈です。
それは原発推進原理主義者にも同じことが言えます。彼らは、「どんな手段を用いてでも」原発を再稼働するのが正義だと考えるでしょう。原理主義者同士が問題を解決するためには、最終的には戦争か棲み分けしかありません。しかし、そんなことは出来んでしょう。だからこそ、システムの構築が大事なのです。
3.議会システムは規制にはそぐわない
その一方、議会のような判断システムも考えられるでしょう。それは、与党が衆参で過半数を握っていれば、いくら野党の反論があろうとも、与党の考えがそのまま通るというシステムです。つまり、このシステムには判事(裁判官)に当たる第三者はいません。そこでは、基本的には議長も与党から出されるのです。さらに、日本では、アメリカのように拒否権を持った大統領がいないので、なおさら二者だけのシステムになっています。
しかし、このシステムは「選挙」という別のシステムによって支えられています。基本的に、与党が進めることは、国民の支持を受けているという前提があるのです。もとをただせば、このシステムは、大衆が少数の特権階級に対抗して、国政に影響を及ぼすためのシステムなのです。
それに対して、原子力規制委の有識者調査団は、国民の付託を受けているわけではありませんし、それ以上に、この議会システム(二者システム)は原発敷地問題にはそぐわないと思います。なぜなら、これが安全性の問題だからです。世論がどう云おうが、安全性はそれとは別に判断される必要があります。
政治によって安全性がなおざりにされてしまうというのは、我々が3.11から得た教訓でもありました。ですから、裁判システム(三者システム)こそが、この問題には相応しいとボクは思っています。そして、そのためにはまず、現状、二者(検事:弁護士)になっているものを、三者(検事:弁護士:判事)にする必要があるでしょう。
そうなると、当然、誰が判事をやるのかが問題だと思うのですが、ボクは検事側の人間(規制委)でも構わんと思うのです。たとえ検事側の人間でも、その役割を与えられれば、その役割そのものによって、行動が規範づけられるであろうからです(そして、判事の役割とは、両者の意見を公平に聞くということです)。いまの問題は、検事が判事を兼任していることにあるのです。
かつて、大津事件の際に、津田三蔵を死刑に処すべきだという圧力に抵抗して、司法は独立性を保ちました。また、最近では、小沢一郎氏を弾劾せんとする圧倒的な世論に抵抗して、司法は矜恃を保ちました。
ボクは、それが正しいとかどうとか云う積もりはありません。ボクがここで云いたいのは、世論がどうとか、社会的正義がどうとか、そういう次元とは別のところで、裁判は行われなければならないということです。
原発敷地問題における公正な裁判システムの構築は急務だと、ボクは思います。