社会の消失3 | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


「長い前置き」

 昨日はまた沼田に行ってきました。一週間くらい前に行ってきたばかりなのに、なんでそんなに沼田に用があるかと云えば、以前に書いた「末裔」の話にかかわります。

 あの時、ボクは、父親が買ってきた「源将監*」に関する研究書に「たしか、こう書いてあった」と述べています。要は、その本が手もとになかったんですな。前から探しているんですが、どっか行っちゃったらしくて…もともと自費出版の本なので、ネットにも売ってないし、「仕方がない。仕入れにいこう」と(* ̄艸 ̄)
*(苗字を書くと検索に引っ掛かってめんどくさいので、姓の方で書きます)

 …それで出かけたのが、前回ですな。(爺さまの菩提寺の最寄り駅、後閑周辺には本屋さんが無さそうなので)高崎~渋川~沼田辺りの本屋さんの郷土資料コーナーを丸一日かけて巡ったのですが、まったく見つからず…(;一_一)

 その時に、ちと思ったのが、「歴史は収斂されていく」ということ。膨大な情報が溢れている現代ですが、その一方で、ネットにも載らないような情報は掻き消されてしまう。はじめから無かったことにされてしまうんですな。そんで、「強い言説」(=繁殖力のある言説)が全てを覆い尽くしていく。言ってみれば、情報の生存競争みたいな感じですね。

 そんなことを考えつつ、むなしく家に帰ってから…沼田市立図書館に「源将監」関係の本がいくつか入っていることを発見(゜o゜)

 …もうさ、そういうのは出かける前に調べるんじゃないのと。いやいや…(菩提寺のある)みなかみ町の図書室は調べようとしたんだけどね。ネットでの蔵書検索が出来んくて…本屋巡りに時間が掛かりそうだったので、本屋さんで売ってる方に賭けて失敗したんですな(^_^;)>

 そんで、今回また沼田の図書館に出向いたってわけです。なんか効率悪く生きてます…燃費2m/Lです(笑)…でも、図書館で半日くらいかけて調べた結果、今回は色んなことが分かりました( ..)φ

 それを書くかどうかは…気が向いたら書くかもしれません。今回、書きたいのはまたちょっと別のことです<(__)>←まだ本題に入ってなかった(笑)


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「社会の消失3」

 今回、書きたいのは、(源将監が生きた)南北朝時代のことよりは、むしろ昭和、いや近代以降ずっと進行してきたものについてです。「源将監について」というよりは、「源将監という語りについて」と言った方が良いかも知れませんね。

 まず、前提としていくつか確認しておきましょう。「源将監」についての書籍は1960年代~1980年代にかけて、少なくとも3冊が出ています。著者は「源将監」の子孫の一族、すなわちウチの爺さまの親戚に当たる方で、これらの書籍はすべて、○○会というその一族の会が後援して出版されています。

 端書きには、「新田義貞を祖として血のつながりをもつ、○○一族の者は永遠にその誇りを捨ててはならない」とか記されていましたが、例の武田信玄末裔モデル騒動の時に出てきた「武田家旧温会」を思わせるような、ちとイヤな感じです(笑)

 あまり親戚筋を批判するのもどうかと思いますが…内容自体も学術的な歴史書とは言いづらいところがありました。著者が、もともと歴史研究の専門家ではないらしいので、仕方がない側面もあるとは思いますけどね。

 ただ、良く調べてはありました。仕事の合間を縫って30年くらい掛けて、日本中の○○一族から祖先の話を聞き(まあ、一族全体が調査しきれるくらいの人数だってことですけど)し、古文書や家系図を調べ、実地調査も行なっている。参考文献一覧も載っているのですが、いかんせん註がないので、その本文に書かれていることが何処から持ってきたのか分からんのですな。調べたことすべてが消化されて「ひとつの物語」になってしまっている。

 ボクは以前から書いているように、現代において「歴史は統計的にしか記述し得ない」と思っています。歴史記述の不可能性と言い換えても良いかも知れませんが。すなわち、ある事象について矛盾する言説があるとしても、その矛盾をそのままに記述するしかない(両論併記)。もちろん、演繹的にやって「真相」が分かるケースもあるでしょうが、時代が離れれば離れるほど、それは難しくなってきます。

 しかし、20世紀というのは、「客観的な歴史」をみんなが共有できるという、「素朴な信仰」が支配していた時代だと思うのです。たとえば、邪馬台国論争や騎馬民族征服王朝説から聖徳太子虚構説に至るまで、1か0かで白黒つけて歴史を記述し得るというような言説がそれです。それらの議論においては、誰しもが「どちらかの」立場を取ることを要請されます。

 「源将監」を巡る「物語」も、その例に漏れません。著者は、○○一族のそれぞれの家に伝わる伝承を収集し、それを「矛盾のないひとつの物語」に仕立て上げようとしている感があります。そして、その「物語」を○○一族で共有すべき「誇り」として提出するのです。この時、枝葉は切り落とされます。これではかえって実態が分からなくなる。むしろ、それぞれの伝承の差異こそが重要ではないか。そんなことを少し考えました。

 近代以降、コミュニティが崩壊していく過程で、個々が拠って立つアイデンティティが求められた時、○○一族は、「源将監」というご先祖さまを掘り起こすことで、一族のアイデンティティを保とうとした。そんな感じがします。

 それはただ一族の歴史に過ぎませんが、「源将監」という「大きな物語」にすべてを収斂させるという典型的な20世紀的試みでした。本屋さんで探していた時には、「源将監」は掻き消される言説のように見えたのですが、じつはそれ自体が「大きな物語」を(構造的に)内包しているものだったのです。

つづく

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