社会の消失1 | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


「社会の消失1」

 昨日はチラッと日帰りで群馬の方に行ってきました<(__)>

 とある理由で本屋さんをハシゴしていたのですが、そこで感じたのは、やっぱり商店街が壊滅状態になってるな~…ってこと。

 商店街の消失が、セカイ系が誕生した背景を直接的に説明しています。世界の中間項たる社会の喪失がセカイ系の特徴です。現代では、商店街を迂回せずにネットで何でも手に入れることができます。ネットにおいては、まさに社会を経由せずに、世界中と繋がることが出来るのです。

 現代社会は、「いかに人びとを社会の中で機能させるか」という問いと、「いかに個々のストレスを軽減できるか」という問いの両方を追い求めてきました。その結果として、社会それ自身を抹消する道を選んだのは興味深いことです。その原因のひとつとして考えられるのは、コミュニケーションの問題でしょう。それは社会を成り立たせているものですが、同時に、個々に対してもっともストレスを与えるものだからです。

 たとえば、昨日はこんなことがありました。ボクは青春18切符を使っているので、自動改札(それもまたコミュニケーションを回避するものです)ではなく、駅員さんのいる改札を通らなければなりません。だけど、上越線の各駅では、改札係が休憩に行っていたりして、わざわざ窓口までお願いしに行かなければならなかったのです。

 自分がやりたいことをするのに、わざわざ一手間かけてコミュニケーションしなければいけないのは、それだけでストレスが溜まるものです。もちろん、「それが逆に良いんだ」と言う人もいるでしょう。そして、それを求めて田舎に行く人すら居るでしょう。ボクはそれを否定する積もりはありません。ただし、それは田舎モードでのみ可能なことです。

 人が飽和している都会では、一手間をかけている間に、いとも簡単に渋滞が起こります(都会の人が急ぎ足で生きているように見えるのは、彼らが渋滞の中で生きているからです)。ひとりが一手間をかけ、たとえそれに喜びを感じたとしても、それは同時に何百人という人のストレスが溜まるということを意味します。かくして、一手間かけるコミュニケーションは社会もろとも抹消されます。端的に言えば、ネットにおいては、ボタンひとつで買い物ができるのです(個人とサービスだけがある状態)。

 (宮台真司は、現代の若者に対して「コミュニケーションスキルを磨け」と簡単に述べています。しかし、大事なのは、むしろこうした状況を前提にした上で、いかにメリットとデメリットを峻別し、そして、いかにそのデメリットを軽減していくかということでしょう)

 そして、社会それ自体が抹消される原因のもうひとつは身体性でしょう。たとえば、沼田では駅から町まで行くためには坂を登らなければいけません。それが良いと思う人も云々は省略。こうした不便さを軽減する方向が望まれるのは、都会も田舎も関係ないでしょう。そして、ここでも繰りかえせば、ネットではボタンひとつで買い物ができるのです。こうして、都会と田舎の双方で社会が消失していきます。

 さらに言えば、コミュニケーションそれ自体が身体性をともなったものです。その両者は切り離すことができず、また同時に社会にとって不可欠なものでもあります。それらが社会とともに抹消されるということは、また別の結果をもたらします。すなわち、性(それはコミュニケーションと身体性のもっとも象徴的なものです)への忌避という事態です。

 しかし、性にまつわるものは忌避されると同時に聖化されます。性に対する忌避と、その聖化とは裏表の関係にあるのです。

 こうして、再びコミュニケーションと身体性が取り戻される契機が生まれます。それ自体が聖化された結果、社会から切り離され(=聖別され)、それのみを(エンターテイメントとして)消化する文化が誕生するのです。かくして、現代は「握手」をするアイドル(偶像)の時代なのでしょう←なんでもそこに持っていく人(笑)

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P.S.
 また風邪ひいた…まあ、一気に寒くなったからだろうけど、抵抗力が弱くなっとるな…やはり人は身体性とは切り離せない…ケホっケホっ(;一_一)