必然性信仰、あるいは運命の出会いについて | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


宮台
 ところが、このことに固執すると「ホームベース」は絶対につくれません。「ホームベース」をつくるということは、偶発性に抗って、簡単に言えば「決断」することと同義です。必要な「決断」を、「必然性信仰」によってスポイルしてしまうのは、論理的に間違っています。その意味で「必然性信仰」は完全に間違いです。

 そのとおり。そもそもそんなことを言ったら、自分がこの国に、この時代に生きているという必然性がない。死ぬしかないですよ。

宮台
 死ぬ必然性さえないかもしれないよ(笑)。

 人生の必然性は自らつくっていくものであって、そのためにはどこかで必然性に囚われない決断を下すほかない。したがって逆に、いちど決断したからといって、それに囚われる必要もない。ダメだと思ったら他の選択肢に切り替えればいいし、なんどもトライアンドエラーを繰り返し、そこそこのところで「これが自分の人生だったんだ」と必然性の思考に切り替える。

『思想地図 vol.4.0』2009年



 これは、東浩紀と宮台真司の対談での一コマ、「運命の出会い」的なもの(必然性)を信仰する現代の若者たち(と言っても2009年)に対するコメントである。

 ボクは、これはハッキリと間違えていると思う。宮台の影響をモロに受けた宇野常寛は、セカイ系(引きこもり)への対立概念として、サヴァイバル系を持ち出し、その「決断主義」を称揚した。

 (ボクは、その決断主義なるものが、閉鎖された世界における想像力に過ぎないと思うし、セカイ系はむしろ「外の外」への想像力を生み出すものだと思っているけれど、いまは、その話は脇に置いておこう)

 宇野が述べた、「引きこもりもまた、ひとつの決断である(それに自覚的であるべきだ)」という指摘は完全に正しい。だけど、ボクが分からないのは、「だから、能動的な決断を選び取るべきだ」という結論だ。それはまた、上述の東/宮台対談への疑問でもある。「決断」という観点から見れば、それらは全て等価である筈なのだ(選ばないのもまたひとつの「決断」)。

 何かを選び取るということは、ひとつの価値判断だ。個人の趣味判断を越えて、「こちら(ホームベースを作ること)を選ぶべき」ということを言うのならば、そこには、なぜ、そうでなければならないか、という理由が与えられなければならない。それが、社会的なものであれ、宗教的なものであれ、何らかの基礎が置かれなければ、「~べきである」ということは言えないのだ。そして、そうした社会的/宗教的価値判断は、とっくの昔にその有効性を失っている。

 それが提示される前に、ただ、「~べきだ」と言われても、ボクは、何も理解できないし、納得もできない。彼らは、上の対談で、(必然性信仰について)「そもそもそんなことを言ったら、この国に、この時代に生きているという必然性がない。死ぬしかないですよ」「死ぬ必然性さえないかもしれないよ(笑)」…と述べながら、笑って流してしまっている。しかし、重要なのは、まさにそこなのだ。

 生きる必然性も死ぬ必然性もない。それこそが、(少なくとも)ボクのリアルであり、だからこそ、「必然性」を追い求める。そこを回避してしまったことで、この議論はとんでもないチープなものになってしまった。結局、彼らの議論は、「自分たちが生きてきたように(自分たちが考えるように)、貴方たちも生きるべきだ」という陳腐なものに堕してしまったのである(批評家としての彼らの唯一にして最大の弱点は、彼らが批評家という生き方を「決断」した人であるということだ)。

 この対談は2009年に行なわれたものだが、まさにその頃から社会現象化していったのが、他ならぬAKB48だ。ボクから言わせれば、彼らは、この時点において、その意味をまったく理解していない。すなわち、理想(偶像)が無数にあるという事態をだ。

 この理想は、一神教的な超越的存在とはまるで別物だ。それが傷つけば、単に乗り換えるだけの偶像(=推し変)。しかしまた、それは同時に、真の理想的存在への憧憬を響かせ続けている。何となれば、それはその概念そのものが上昇への指向性を持っているからだ。かくして、容易に「理想」を選びながら、それを次々と乗り換えつつ、それでもなお、「真の理想」を追い求め続けるという思考が生まれることになる。

 東浩紀は、『ゲーム的リアリズムの誕生』で(美少女ゲームに触れながら)そのことを指摘していた筈なのに、なぜだかここでは、宮台の議論に巻き込まれてしまっている。それは単に、社会的存在としての自分(夫であり父である自分)が、社会の外側に立つ理論家としての自分を、覆ってしまったからに過ぎないのではないか(とボクには思える)。本来、その両者の間には、もっと葛藤があってしかるべき筈なのに、ここでは前者が後者を完全に押し込めてしまっていている。まるで、その矛盾に気付いてすらいないかのように。

 理想が無数にあるということ、どのような生き方もそれなりに称揚されてしまうということ。現代において起こっていることは、若者が「決断をしない」ということではなく、むしろ、「決断」に対する障壁(そのコスト)が、著しく下がっているということだ。誰もかれもが簡単に「決断」できる。ボタンひとつを押すだけで決断できてしまう時代だ。極端に言えば、別れるのも付き合うのも「送信」ボタンひとつで済む。(もちろん、それだけではないけれど)それが現代における「決断」のひとつの姿だ。

 そのような「トライアンドエラー」を繰り返す「コンビニエンス決断」に真の価値を見いだせないということ。自分の命を賭けるに値しない種々の柔らかな決断。こうしたものに対する裏返しとして、「必然性」に重きを置く思想が登場する。これはむしろ、「決断」に対する障壁を高くしようとする闘争、すなわち、「柔らかな決断」から「真の決断」を差異化しようとする闘争として見るべきなのだ(それで「時間切れ」になるかどうかはまた別の問題だ)。

 ボク(ら)は「無数の柔らかな決断」をしながら、それらに価値を見いだせず、常に「真の意味での決断」、すなわち、「命を賭けるべき決断」を追い求め続けていく。それは、宮台的な「決断」とは全く別のものだ。そして、「必然性信仰」とは、「必然性」という外的原理によって、「無数の柔らかな決断」の内のひとつを差異化し、「真の意味での決断」に昇華させようとする試みに他ならないのである。