「エル・グレコ展」
(東京都美術館、~4/7)

「無題」
人体の内に表わされた精神。病的な青白い肌。歪められた形体。瞬間、さすがにピカソを生んだ国の人だと思い、「いや、エル・グレコはギリシアの人だ…」と思い直す。風土や民族性をめぐる諸々のこと。
ギリシアと言えば、もちろん、古典中の古典である、あの偉大な彫刻群を思い起こす。その端正なプロポーション、静謐な躍動感。底抜けに明るい光。陰のない光。それらはエル・グレコとは正反対だ。
ここには、ギリシアの理想よりはむしろギリシアの現実がある…と言ったら嘘になるだろうか。そこに描かれる人々(あるいは聖人)の、どこか一貫した陰鬱なムード。それでも弱さを感じさせないのは、そこに理想的世界を感じさせる明哲さがあるからだ。その明哲さこそが、あの偉大な彫刻を生み出した文化の名残なのかも知れない。
いや、こんな分析は、きっとtoo cheapだな(彼はむしろビザンツの直系だ)。
綿あめのような雲、安物セットのような建物。きっと、彼にとっては、背景なんて添え物みたいなもの。遥か遠くで雨が降っている。自分が何を言いたいかさえも分かっちゃいない。ただボクの目にはそう見える、というだけのこと。
目の前を歩く無数の人々。群れからはぐれた獣のように、ボクは離れて歩いていく。そして時おり、目をつむり、その群れを捨象しようと試みる。彼らは、果たして、ここに描かれているものを理解しているのだろうか。
いや、ボクにそんなことを言える資格はない。ボクこそが何モノでもない。何モノでもない自分が、世界の中心であり続けなければならないということ。その分裂が耐え難くなった時、きっと人は、その歩みを止める。
なぜだか、きょんちゃんの幻を見た。

1595年頃、236x117cm
魂が純潔であること。それにまつわる諸々のこと。≪福音書記者聖ヨハネのいる無原罪のお宿り≫の絵の真っ正面に、赤いチェックのリュック・サックを背負った女の子が立っていた。瞬間、ボクが撮りたい写真は「これ」だと思えた。金色の額縁に照明が反射して、まるで夕焼けの色のように見える。いまのボクは、もはや絵の内に浸透していることが出来ず、絵の外側からしか絵を感じることができない。経験は認識を汚していく。
まるで、あの≪受胎告知≫の白い鳩みたいだ。エル・グレコの白は、その原初、きっと、もっとずっと神聖なものだったんだ。精神や神聖性が、身体的・物理的に汚されるということ。時間というものの無慈悲さ。時は世界の王だ。誰もそれに逆らうことはできない。たとえそれが、世界でもっとも偉大な精神であったとしても。
エル・グレコ展にエル・グレコが居ないということ。ここには作者という名札に託された数十個の物体がある。イコンに描かれるイコン作家なんて、たちの悪い冗談みたいなものだ。展覧会自体は素晴らしい。でも、なぜだかボクは、「ここにエル・グレコ(自身)は居ないんだ!」と叫びたくなった。
あの素晴らしい≪悔悛するマグダラのマリア≫は、
ボクの罪を洗い流してくれるだろうか。

≪悔悛するマグダラのマリア≫
1576年頃、156.6x121cm