

「再生」
ここんとこ、ずっと<きょん>(磯原杏華)ちゃんの写真を撮っている。以前の記事に書いたように、ここでボクが言っているのは、もちろん、「モニターに映る姿を撮っている」ということだ。だけど、何枚撮っても何枚撮っても上手くいかない。絶望的ですらある。モニターを撮ったって、ロクなものが撮れるわけがない。方法論が間違っている。それは分かっている。
でも、それじゃあ、ボクが感じている「この感じ」は一体なんだ。それすらも獲得できないのか。写真のポテンシャルって、そんなものなのか。いや、そうじゃない筈だ。時代は移りゆく。その時代その時代の感性もまた、それに追随していく。ボクはここに生きて、そしてそこで何かを感じている。それを捉えられないということへの焦燥。
ある写真家は、「とにかく、出歩かないといけない」と言った。その意味は簡単だ。写真は表現じゃない。だから主題が全てであって、その主題に巡り会うために、写真家は旅を続けなければならない。
GSVを撮影した写真に対する批判は、こうした「古い価値観」から訪れる。それでも、確かに、そうした方法論は今でも有効であって、きわめて意図的に作られたマッギンリーの写真ですらも、その起源を探れば、人と自然との交感がなければ成立しえないものだ。
人と自然との交感。それはまた、詩人の霊感(インスピレーション)の源でもある。アンデルセンの「即興詩人」にも明らかなように、詩人は古来、旅をするものだ。バイロンや李後主、そして、わが国では(言うまでもなく)芭蕉。古今の絶唱は、詩人たちが旅の中で、自然と交感することによって生み出されてきた。吟遊詩人が詩人のプロトタイプであることを考えれば、これは当然のことなのかも知れない。
その一方で、たしかに、日常的な些細な光景を写した写真家もいるだろうし、日常から霊感を受ける詩人もいるだろう。それでも、ボクは、現代的感性といったものが、それとは別に存在すると思っている。いや、正確に言うと、現代的感性の一部か…
ここでの新しいことは、「遠いものが近くにある」ということが「身近にある」ということだ。ボクらは、常に、遠きものの光を、過ぎ去ったものの影を、その身に浴びている。アウラの喪失と、世界を再び生きること(再生、あるいはリピート)。それが現代を生きるボクの感性の全てだとさえ言ってもいい。ボクは、どうしてもそれを捉えたい。