「人のいない展示室で(アーティスト・ファイル2013雑感)」

「ヂョン•ヨンドゥ」
広い壁面に、大きい写真と、その子供のような小さな絵が並んでいる。しかし、その両者の関係は、実際には逆だ。子供の描いた絵を、写真で再現している。
この写真は、何を指し示しているのか。たしかに、インデックス(指標記号)としては、ここに写っているもの(被写体)を指している。たしかに、これを子供の描いた絵のイコン(類似記号)として見ることも出来る。構図や色などから、どの絵を基にしたのか類推できる。
でも、それは本質的なことじゃない。実際、構図と人物の配置以外は、ほとんど似ていない。むしろ、この両者(絵と写真)は、イマジネーションの世界でつながっている。これが指し示しているのは、子供と作家が共に住まう、そのイマジネーションの世界だ。ボクは、この写真を詩的だと思う。
「志賀理江子」
バラバラに配置された木造パネル。まるで、不思議の国に迷い込んだかのように、イメージの迷路に彷徨う。ここでは、写真と言うよりイメージと言った方が、なにか相応しい気がする。ひとつひとつのイメージが物語っていく。ボクは、イメージの迷路に旅をする。
個々のイメージは、それ自体とても強いけれど、あらゆるイメージを一望の下に見渡せるわけではない。中には、壁の方を向いていて、鑑賞者からは見えないイメージすら存在する。イメージそれ自体はパースペクティブの領域に内在しながら、イメージ全体は、パースペクティブの不可能性を訴える。ちょうど、そんな具合だ。(たしかに、人は、全てを同時に見通すことなんて出来ない)
隣接するダレン・アーモンドの展示室から漏れてくる音楽。それがBGMとなって、ひとつの気分を構成する。歩いている内に、いくつもの物語を通り過ぎる。ボクは川の流れに揺蕩う木の葉のように、展示室を彷徨う。ある場所から見たイメージが、違う場所からは一部だけ見える。そしてまた別様に見える。それは時に余りにもfragileで、ボクを、気が遠くなるような気持ちにさせる。
いつか何処かで見たような景色。気が付けば、彼女はボクと同じ年だ。もちろん、それ自体には、何の意味もない。物語と物語の断絶と連環。語りかけてくるイメージ。展示室の中ほどに、そこに立つと、すべてのイメージが語りかけてくるように感じられる場所がある。それはちょうど、川の流れの下流にある湖か、あるいは海に到達したような感じだ。
そこに立っていると、旅をして通り抜けてきた全てのイメージが、まるで波が打ち寄せてくるように、一定の感情を持って迫ってくる。決して見ることが出来なかったイメージですらもだ。流れることと打ち寄せること。それは同じ水(イメージ)なのに、こんなにも違う強度の言葉を持ち得る。そして、誰もいない展示室で、ボクはひとり、こう思う。
「彼女が、こんなに必死で叫んでいるのに、なんで誰も聞こうとしないんだ!」と…
(↑に展示風景が出てるけど…これじゃあ、ちょっとダメだな…伝わらん)
「ダレン・アーモンド」
月明かりの中で長時間露光した写真。昼のような明るさ、でも、何処かに違和感がある。実際にそこにあった風景、だけども実際にはそうではなかった風景。何故か「月明かりのグライフスヴァルト」(カスパー・ダーヴィト・フリードリヒの故郷)という言葉が思い浮かぶ。ボンヤリとした頭の片隅で、ボクは「これもまたポエティックだな」と思う。
