
「アポロン的、ディオニュソス的」
思うに、写真表現に2つの方向性があると思う。ひとつは物体(対象)に寄り添う客観的表現。もうひとつは、時間のうちに生きる瞬間の表現。
前者はたとえば典型的には証明写真(あるいは宣材写真)のようなものだ。この場合、ライティングも調節して、対象の姿を細大漏らさず「記録」しなければならない(したがって、多くはスタジオ撮影などが使われる)。一方、後者の場合は、それぞれの時間を表わすため、陰影やさらにブレボケまでもが肯定される。
これは、あるいは中平卓馬が『植物図鑑』を著した時に考えていた「図鑑的写真」と「詩的写真」の区別に近いかも知れない(あるいは、ニーチェが言うところの「アポロン的」と「ディオニュソス的」か…)
しかし、カントに言わせれば、人は「物自体」を認識することはできない。おそらく、それは(理屈的には)正しい。これは、当然、写真でも同様であって、実際、どれだけ明晰に写っていても、その写真が当人を表わしているとは、どうしても思えない時がある。というよりむしろ、そちらの方が多いのではないだろうか。
これはアイドルでも同様であって、画像検索をかけて出てくる<きょん>(磯原杏華)ちゃんの写真なんて、髪切ったとか以前に、ボクには、どうしても<きょん>ちゃんには見えない(参照→http://goo.gl/MYdmp)。ここに、アポロン的写真の限界がある。(にも関わらず、時に、人は、アポロン的写真の方が真実に近いと考える)
ロラン・バルトは愛する母の「真実」の顔を撮影した写真を探し求め、結局、遙か昔に撮られた一枚の古びた写真のうちに真実の母の姿を見出す。バルトは、そこに「ぼんやりと」写っている5歳の少女の姿に、ようやく、彼が愛してやまない母を「見出した」のだ。これが世界でもっとも有名な未公開写真「温室の写真」である。
つまり、たとえアポロン的に真実を捉えるのは写真には無理だとしても、バルトが見出したように、「詩的真実」を捉えた写真(ディオニュソス的写真)はあるだろう。それは一体どういうものだろう。
レッシングは、絵画は空間芸術であり、詩は時間芸術であると述べた。そして、そのそれぞれの対象に専念すべきだとした。しかし、実際には、時間と空間は切り離せないのだ。アポロン的写真からは時間の要素が捨象されている。ロダンに言わせれば、「芸術家が正しく、写真は嘘をついている。なぜなら、実際には時間は止まらないからである。」
それでは、時間や陰影の要素を取り込めば良いかと言うと、そう単純でもないようだ。今日、ボクはモニターに映る<きょん>ちゃんの写真を撮っていた。だけど、どうしても捉えきることが出来ない。出てくるのは、そこに映る<きょん>ちゃんとは似ても似つかないような屑写真ばかり。



もちろん、モニターを写しても、真実なんて捉えきることは出来ない、という考えもあるだろう。でも、そうじゃないのだ。モニターに映る<きょん>ちゃんの(動く)姿にすら、遠く届かない。そこから発せられる「聖性」の欠片すら、感じられないということなのだ。
しかし、ボクはそういう写真があることを知っている。エヴァンスやメイプルソープ、あるいはナン・ゴールディンが撮った写真などは、アポロン的でありながら、詩的真実を写し出している。ただ、ボクにはそういう写真が撮れないというだけの話なのだ。…ちっ…なんか下らない結論になっちまったな…