会田誠について(+価値観に関するetc.) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


「森美」で開催中の会田誠展が物議を醸しているようです↓

「全裸の少女の絵」を展示した会田誠展は「児童ポルノ」にあたるのか?

 まあ、さもありなん(笑)…「価値観」の問題は、ボクがいま(アイドルという観点から)考えていることとも共通点がある気がしますが、正直、「正しい」とか「正しくない」とか以前に、ボクは会田誠さん(の作品)が「ダイッキライ」なんですよね…(;一_一)

 とは言え、そんな作家でも見なきゃいかんのが悲しいところで、2、3年前、レポート課題として見に行ったことがあります。とても短いレポート(400字)ですし、はっきり「嫌い」だと言っているレポートを公開しても仕方ないので、ブログには掲載していませんでしたが、ちょうど良い機会なので載せて置くことにします←流行りに乗ろうとする人(* ̄艸 ̄)



「会田誠について考える」
「会田誠+天明屋尚+山口晃」展(高橋コレクション日比谷)
「会田誠 ― 絵バカ」展(ミヅマアートギャラリー飯田橋)

 会田誠は僕の目を挑発する。そこには、ある種の「吐き気」がある。嫌悪感と言っても良い。それは、僕の持っている、いわゆる「常識」を照らし出す。僕は、彼の立ち位置が「正しい」んだなどとは思わない。それでも、極端に「常識」から外れているように僕の目から見える彼の立ち位置は、僕の立ち位置を相対化する。それは、余り心地の良いものではない。それこそが、僕の感じる「吐き気」の正体なのだろう。彼の絵の前で僕は、自分の立ち位置の「不安定さ」を知る。そして、そんな僕の「解釈」すら彼は挑発していく。「みんなといっしょ」シリーズの前に立つと、そこからは「遊び」の感覚が感じられる。「シリアスさ」を嘲うかのように、思いつくままに描かれた作品。美術館に展示されるような作品とは対照的な空気。美術館を取り巻く空気こそが「シリアス」なんだということに気付く。彼は「遊び」をもって、それらの「シリアス」を挑発していく。



追記:
 ↑の短いレポートを見ると、この頃のボクは、自分の立ち位置を、「常識」の側に置いていたことが分かる。でも、「オウム」に対する興味を経て、「AKB」信者として推移していく道筋を考えると、どうも最近のボクは、かなり意図的に、(常識の)「あっち側」に身を置こうとしているような気がする。それは、たぶん、そうでなくては物事の全体を理解できないように感じているから。まあ、「ミイラ取りがミイラ」なのかも知れんけどね。

 もしかしたら、その心境の変化は、3.12以後(ボクは原発事故のみを指す時に、この表現を使う)、圧倒的に見えた「脱原発」世論のなか、「原発推進(維持)派」として、生きていく覚悟を決めたことに、端を発しているのかも知れない。たぶん、あの時から、ボクは、「価値観の多様性」と心中する覚悟を決めたんだ。(それ以前から、歴史を学んだ影響で、そうした考えを持ってはいたけれど)

 こういうこと言うと、ある種の「脱原発」原理主義者からは、「心中とか言って私たち(彼らの多くは「子ども達」と言うけれど)を巻き込まないでくれ」と言われそうだ。でも、まさにそこが問題なんだ。ボクが原発と心中する覚悟を決めようが、それはボクの自由だ。だけど、彼ら原理主義者は(脱原発/原発推進問わず)何故か、それを自分たちの問題として捉える。

 たとえば、「脱原発/原発推進」原理主義ならば、たとえ自分たちの住む土地から1000km離れた原発だとしても、そこに住民のコンセンサスがあろうがなかろうが、それに「反対/賛成」を唱えるだろう。(放射性物質が1000km飛ぶとかいった議論はまた別にあるだろうけれど)

 でも、ボクは地元(という定義がまた厄介だけど)のコンセンサスが取れていれば勝手に再稼働すれば良いと思うし、あるいは、廃炉を決めるなら、それも彼らの勝手だ。それは、彼らの問題であって、ボクの問題ではない。ボクが何かを主張するのは、それは基本的には、ボクが関わる範囲においてのことに過ぎない。そういう意味でボクは、厳密には「原発推進派」ですらない。

 だから、ボクが1000km離れた原発について何かを主張する場合は、(近い原発の場合は具体的な話を含むけれど)全体の一部として貿易赤字がどうとか、もし事故が起こったとして、その損失額はどうとか(あるいは核廃棄物の処理がどうとかCo2がどうとか)抽象的な話になる。その点での賛成/反対はあり得るけれどね。ボクも日本経済の一部なわけだから(明言しておくと、ここでボクは「金額」の語彙によって、「命」の問題に触れている。経済損失によって命が失われることもある。つまり両者は同じ天秤だという意味を、ここには含んでいる)。

追記:というか、ここの(1000km云々の)下りは、むしろ「海外の原発」ってしちゃった方が論理の筋が通った気が、今になってしてきた(^_^;)>

 だけど、それはやはり、「ボクにとってどう」という問題から主張しているに過ぎないんだ。ボクは、みなが同じ行動/判断をしなければいけないとは思っていない。だから、ボクが問題にするのは、ボクが自分の主張を唱えることができる(というのは、誰もが自分の主張を唱えることができる)だけのルールを確保しておくことになる。この文脈において、ボクがもっとも重要視するようになるのが、まさにコンセンサスだ。

 ボクの考えでは、コンセンサスがあるところでのみ、そのコンセンサスに従って善悪の判断基準が成り立つ。(というのは、もう一方で、コンセンサスがない場合は全てが否定されるべきという主張なわけだけれど、これは「個々が自由に主張できる」というルールに対するメタレベルのコンセンサスから生じる)

 しかし、真の原理主義者ならば、コンセンサスがあろうがなかろうが、そんなことは、一切、問題にしない。原理主義者たちは、どこかに「原理」があると思っているから、この原理はコンセンサスの如何に関わらず全てに適用されるべきだと考える(つまり、ここで言う「原理主義者」とは、コンセンサスのあるなしに関わらず、相手を自分の意に沿わせようとする人間だ)。

 ボクは気付いたんだ。何よりボクが受け容れがたいのは、そうした原理主義者がもつ「お節介根性」だってことに。そして、原理主義者は「あっち側」だけでなく、「常識の側」にも居るんだってことに(これが、ボクが言うところの「2つのもの」を「4つに分ける」ということ。つまり、常識-原理主義、常識-非原理主義、非常識-原理主義、非常識-非原理主義*1)。そして、これがもっとも重要なんだけど、本当に危険な原理主義は、明らかに「常識の側」なんだ。

 「社会の異物」としての「原理主義」は、たとえ被害をもたらすとしても、それは、どれだけ多く見積もっても、数千人~数万人単位の被害しかもたらさないだろう(それが多いかどうかは別として)。だけど、「常識の側」の原理主義は時として、数百万~数千万人規模の悲劇*2をもたらすことがある。これは当たり前の話で、「社会の異物」と「社会の常識」とでは、社会に与える影響力が全く違うからだ。



*1.会田誠の場合は、(定められた会場で、自分の足で見に来る人を相手に行なっているわけだから)おそらく非常識-非原理主義に分類できる。それは、まさに(趣向は違えど)ボクが立たんとしているその同じ場所だ。その意味において、この記事は、当初の意に反して、最終的には会田誠を擁護する記事になってしまったわけだ。

*2.もちろん、この数字は、その社会の規模に左右されるわけだけれど、ここで挙げた数字は当然、ナチスと共産主義のそれを指す(それらはその当時、その社会においては「常識の側」にあったものだということを忘れてはならない)。もちろん、日本でもアメリカでも似たようなことはあった。