「あらゆる詩は夜に生まれる」
この言明を、そのまま受け取るのは不可能であるように思えるかも知れない。なぜなら、我々は昼にも詩を書く。しかし、次のように言うことは出来るだろう。
昼においては、あらゆるものが明らかであり、区別は消し難い。そこでは、われわれは自身の言語カタログに従い、あらゆるものを区別する。そこは、分析的言語の支配する明晰性の王国である。
一方、夜はそのようなものではない。そこでは全ての区別は消失し、分析的言語はその効力を失う。そこは、すぐれて詩的な世界である。なぜならば、
ポエジイの世界は想像された世界である。「想像する」ということは、自然の法則によらないで、自然が結んでいるものを離し、自然が離しているものを結ぶことである。
西脇順三郎『詩学』p.164
ポエジイの世界は自然が結んでいるものが離され、自然が離しているものが結ばれた世界である。そして、あらゆる夜は、それ自体の力によって、自然が離しているものを結び、またそれが結んでいるものを離す。(夜に光をもたらし、世界の全てを昼となす文明はまた同時に、世界から詩を追放しようとしたのだ)
したがって、「あらゆる夜は詩的である」という帰結が導き出されえる。しかし、この言明からもまた、「あらゆる詩は夜に生まれる」という命題は(直接には)生じない。たとえ、あらゆる夜は詩的なものだとしても、それが直ちに、すべての詩が夜のものだということにはならないからである。(この場合、詩>夜になる)
ここから、先の命題を導くためには、それ自体に詩的結合が用いられなければならない。すなわち、「詩(人)は、その力でもって、昼(明晰な世界)をも、夜に転じさせる」と。ここに、「夜」はそれ自体において、詩的な含意を持つことになる。こうして、夜は詩の世界となり、詩は夜のものとなる。
かくして、「あらゆる詩は夜に生まれる」