
「自己言及的」
東浩紀が大塚英志を援用しながら言及する「自然的リアリズム」と「まんが・アニメ的リアリズム」の違いについて考えてみよう。「作品がその外側の現実世界にもとづいている、というのが『リアリズム』」であると、彼が述べているように、その両者ともに、その作品の外側の何かに基づいている(リアリズム)という点では変わらない。しかし、その作品そのものが「まんが・アニメ」である以上、「まんが・アニメ的リアリズム」は、必然的に自己言及的な側面を帯びることになるだろう。
詩的言語(体系を拡大するもの)と日常言語(体系内で機能するもの)の例を考えても分かるように、自己言及的なもの(日常言語的なもの)は自己解体/自己分析的なものとなり、そうして解体されたパーツを組み合わせることで機能する。言語の場合、このパーツはひとつひとつの言葉になる。これを組み合わせることで日常言語は機能する。このひとつひとつの言葉の集積がデータベースであろう。データベースという言葉を使う限り、それはすでにデータベース化されたものを意味する。
一方、詩的言語はそのようなものではない。詩的言語は体系内に言語を取り込むものである。言い換えれば、データベース化の作業そのものが、詩的作業になるのだ。ここに取り込む時に重要になるものが、詩人の見方、あるいはインスピレーションであろう。つまり、外側から取り込むのだとしても、その取り込み方が重要なのだ。それは揺るがせにできないもの、組み合わせ方を変えられないものである。それは、日常言語化し、解体されると同時に詩的生命を失う。(したがって、リアリズムは本来的に詩的契機をその内に含む。というよりも、リアリズムの問題は、その対象をどこに求めるかの問題であり、詩の問題は、その対象をどう捉えるかの問題である)
さて、写真には「自然的リアリズム」と「まんが•アニメ的リアリズム」の違いはあるだろうか。もちろん、写真はマンガ•アニメではないわけだから、この区別は「自然的リアリズム」と「写真的リアリズム」と読み替えられなければならない。写真は自然を描写するものだから、一見、写真的リアリズムなどは存在しえないように思えるかも知れない。しかし、対象の忠実な描写と区別されうる、(ブレ=ボケ、フレーム化、平面化などの)写真的視覚は存在する。
そして、誕生以来150年を経て、写真においても自己言及的な側面「写真的リアリズム」が根付いていることを感じさせられる(社会背景によってそうなのか、それとも写真史的な文脈においてそうなのかは考えなければいけないけれども)。たとえば、アートフィルターは過去の写真家たちの表現法をトレースしたものだ。Instagramに代表されるような「写真加工/編集」のソフトウェアもパーツを提供するデータベースとして機能する。現代の写真の多くは、主題というパーツとフィルターというパーツによって組み合わされて作られる(その主題というパーツもまた、それの見方/切り取り方という点において、過去の写真から汲み取られてくる)。
さらによりラディカルな形態として、写真そのものをパーツとして持ってきて提示する「ファウンド・フォト」が挙げられる。この場合、データベースというのは抽象的な意味ではなく、まさに写真の現物そのものとなる。たとえば、GSVの画像を写真作品として提示することも、この系譜として考えることが出来るだろう。しかしまた同時に、単一の時間/場面を基本原理とする写真は解体の余地がないようにも思える。GSVの画像も(組み立てられるのではなく)単に「切り取られて」提示されるのだ。
ここで考えなければならないのが、写真の素材化という観点であろう。デジタル時代において、その編集の容易さは写真に素材としての性質を付与する。たとえば、人物の姿のみを写真から切り取って、別の場面に貼り付ける(典型的には広告などの)例が考えられるだろう。さらに、CGの素材として写真は用いられる。この場合、多くはテクスチャーという形になるだろう。CGという文脈において、写真的データベースは自己言及的な(写真的リアリズムの)側面を離れ、自然的リアリズムのデータベースとして機能することになる。したがって、ここには二重性がある。