いま、「願いは叶う」ということ | 想像上のLand's berry

想像上のLand's berry

言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


 AKB高橋みなみは、かつて、AKB総選挙の折りに「努力は必ず報われる」と述べました。これを青臭い書生論だと片付けることは容易いでしょう。そんなもの誰が考えても、「報われない努力だってある」という反論を思いつくことができます。しかし、「願いは叶う」という使い古された慣用句の、この亜種は、個人のレベルを離れ、集合的無意識のレベルで考えてみた時、恐るべき真実となるのです。

 「願いは叶う」。これこそまさに、21世紀の世界を彩っているものです。現代では、人々は自らの願望をネット上に吐き出していきます。ネット社会は(現実社会よりも)本音の社会であり、そこは人々の願望で埋め尽くされている場所です。そして、ネットのもうひとつの特性として、感情の瞬間的な共有があります。こうして、人々の「願い」が瞬く間に共有され、現実社会に影響を与えていくという構図が出来上がります。今日、ネットは虚構の世界などではなく、むしろ現実そのものがネットによって作られていくのです。

 「願いは叶う」。ネットによって結び付けられた集合的無意識は、自らの願いを実現していきます。これを端的に現したのが、渡辺麻友のPV『ヒカルものたち』です。


 このPVでは次のような物語が描かれます。(↑の動画は前半部のみです<(__)>)

 人気絶頂のアイドル、渡辺麻友。彼女は、あるライブ中継で歌を歌っている途中、データエラーによってフリーズを起こします。崩壊していく身体。つまり、渡辺麻友は現実に存在するアイドルではなく、一種のホログラムのような、仮想アイドルだったのです。剥がれてゆくカリスマ性。ヒトではなかったことが判明した「まゆゆ」の人気は急速に凋落していきます。そこには、アウラを失った只の人形が歌っているだけでした。そして、渡辺麻友は消失します。

 しかし、心の何処かに、みな、「まゆゆ」への想いを残していたのです。ふとした拍子に蘇っていく記憶/想い。そして募っていく「みなの想い」。それはやがて「まゆゆに会いたい」という願いとなって、世界中を駆け巡ります。そして、その願いは叶います。拡張された現実。渡辺麻友は、再び身体を得て、いやむしろ身体を越えて、真に実在する仮想アイドルとして世界に降臨したのです。

 こうして、集合的無意識によって願われたことが実現します。まさに「願いは叶う」のです。そもそも、存在そのものが不可知のもの。人々の願いは、「まゆゆ」に、あの聖なる性質<存在>を与えたのです。

 「願いは叶う」ということを、よりラディカルな形で表したのが、2000年代を代表するアニメ、『涼宮ハルヒの憂鬱』でした。一見、普通(?)の女子高生である涼宮ハルヒは、本人は気付いていないのですが、実は世界を作り変える力を持っています。まさにハルヒの「願いは(ホントに)叶う」のです。そして、この作品の射程は、「願いがホントに叶ってしまう」ということの怖さ、無邪気さのウラに潜む残酷さをも含んでいます。基本的に、この作品は、無邪気なハルヒの願いに周囲が振り回されることで成り立っています。ハルヒの退屈は、世界そのものをも作り変えかねないのです。

 現実に目を振り向けてみれば、かつて、自民党政権を終わらせたいという集合的無意識の願いは叶いました。そしてまた…。さらに、遙か彼方に目を向けてみれば、「カダフィに死を」という願いも叶ってしまったのです。その一方で、「脱原発」という願いは叶いませんでした。それは、願いが叶わなかったのではなく、(個人のレベルではなく、集合的無意識のレベルで)願われなかったから…

 「願いは叶う」という言明は、二つの意味で残酷さを含んでいます。ひとつは、その願いがどれほど残酷なものであれ、叶ってしまうということ。もうひとつは、個人によってどれほど願われたとしても、それが集合的無意識のものとならなければ、その個人の願いは踏みつぶされてしまうということ。

 こうして考えていくと、AKBの中心にいる高橋みなみが、「願いは叶う」という考えを、その本質において共有していることは興味深いです。しかし、(彼女にとっては残念なことに)それは個人ではなく、集合的無意識にとっての真実なのです。「願いは叶う」「努力は必ず報われる」。この言明は、「集合的無意識の願いは叶う」、「集合的無意識の努力は必ず報われる」と読み替えると、恐るべき真実となります。

 AKB総選挙による人気の可視化。それはまさに、集合的無意識の「願いが叶う」場所です。大島優子を一位にしたのは集合的無意識の願いです。誰かの順位が落ちたとして、それもまた集合的無意識の願いなのです。「願いは叶う」「努力は必ず報われる」という言明に潜む無邪気さ残酷さ。彼女たちは、もっともラディカルな形で、現代というものを現しています。ゆえにこそ、AKBは時代を象徴する現象なのだと言えるのかも知れません。