日輪の遺産(浅田次郎) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


一部、汚い言葉遣いをする箇所があります<(__)>



『日輪の遺産』浅田次郎、1993年

概要
 敗戦国ニッポンの勇気を描いたスペクタクル。帝国陸軍がマッカ-サーより奪い終戦直前に秘匿した時価200兆円にのぼる財宝。鍵を握る黒革の手帳に記された驚くべき真相!人気沸騰中の作者の歴史ミステリー(Amazonより)

感想
 映画版のレビューで、「あれだけ作家批判をやっておいて、原作を読んでないってどうなんだ」って声が頭の中で聞こえてきまして、原作を読んでみました←変なところで律義(笑) …結論から言うと、やはりどうにもならんですな。

まず映画と原作の描写の違いについて…

 ボクが「クリア過ぎる」と言っていた(映画での)ラジオの玉音放送は、原作だとノイズが酷くて聞き取れないという描写になっていたから、これは完全に監督のミス。大体、あの場面は心理描写を考えてもノイズが混じらなければいけない筈だから、なぜ、あの監督がああいうことにしたのか理解できん。この監督もこの監督で分かっとらん人なのかな?

 それから、あの映画のマイナス点をもうひとつ。映画において、現代の部分は(約20年前に書かれた)原作との時代的な乖離によって、大幅に直されている。でも、結局、そのことで伏線が回収できなくなっていて、話全体がふわ~っとしたものになってしまっている。ただでさえファンタジーなのに、それが強調されてしまってるんだ。

 原作になく、映画にだけ存在する場面で、良かったのはひとつ。久枝とマッカーサーの場面。これは単に画的な問題。

 まあ、それはともかく。映画を見て受けた印象は、原作を読んでもやはり大して変わらなかった。違いがあるとすれば、ディテールの細かさ。筋立ての粗雑さを、ディテールの細かさで補っている。そんな印象だ。映画では、そのディテールが失われ、筋立ての粗雑さが露わになっていた。もちろん、原作のそのディテールだって骨身に染みたようなものじゃない。表層だけなぞったようなディテールで、何か深い理解や洞察に裏付けられているわけでもない。

 映画を見てボクが矛盾に感じたところも、一応、原作では説明されている。いや、むしろ弁解していると言った方がいいか。それでも、全然、納得はいかないけれど。むしろ、物語上、強引にそちらの方向に進めるために、多少、矛盾していようが何だろうが、別に構わない、矛盾しているところは弁解してごまかす必然性の希薄さを、弁解することで誤魔化している。そんな感じを受ける。作者の意図によって作品世界が犠牲になっている。これは原作でも、やはり変わらなかった。

 それから、映画よりも酷いこともある。この原作、陳腐な思想の押し付けになってるんだ。こういう作品に見られる典型的な構図がここにもある。敵国にも良い奴がいて味方にも嫌な奴がいるから、一見すると相対的にものごとを描いているような感じを受ける。だけど、実のところ、根幹の部分で主人公と同じ思想を持っている(つまりそれは作家と同じ思想ということなんだけど)人間が、有能でかつ良い人間として描かれる。つまり、驚くべきことに、善悪の二元論になってるんだこれ。いまだに!宗教かよと。

 自分に都合の良い史実の解釈によって、それ(思想の押しつけ)はなされる。それが若者(というのは自分たちの世代=団塊の世代なんだけど)に託されるみたいな安っぽい話。大体、極秘任務を託された人間が、なんでみんな自由主義/平和主義者なんだ?ご都合主義の作文だなこりゃ。歴史というもの、そこに生きた人々の魂を、自分たちの世代へのメッセージなどという安っぽいものに変換してしまう。この浅ましい根性。こういう浅ましさは当然、物語にも影響を及ぼす。

 たとえば、こういうことだ。昭五式の軍服を着た伝令は、かつての切り捨てられるべき古い日本の象徴/亡霊として機能する。これを切り捨てることで、日本は新しい日本へと生まれ変わる。そして、戦に勝った筈の「マッカーサー」は、日本精神の優秀さにおののき、いつか母国が日本製品に占拠されることを予知する。バブル崩壊後に自信を失った日本人に対して、戦後の目覚しい発展を思い出せと、自分たちの国に誇りを持てと。そんなメッセージが、この作品には込められている。

 …んなもん、くそくらえ!何がメッセージだ。純粋性をテーマにしながら、作品自体はまったく純粋じゃない。自らが言いたいことのために、歴史を、その解釈をねじ曲げている。これは、歴史に学ぶこととは正反対だ。しかもこれは、いわゆる「団塊の世代」が自分たちのやってきたことが正しかったということを言うために、戦時中の話を(しかも相手国の人間まで!)利用しただけみたいな感じなんだ。そんなもんのために、歴史を歪めちまうような人間に、歴史小説を書く資格はない。

 (ボクのダイキライな)司馬遼太郎は色眼鏡で歴史を見た。だけど、これはもっとタチが悪い。あれも記号、これも記号。その記号は歴史に言及するふりをして、自分(作家)自身の正当性を語る。ボクは、金輪際、浅田次郎は読まん。

そして、最後に、もうひとつだけ。

 女学生の数が映画では20人。小説だと35人。でも、物語上は何も違わない。こんなバカな話はあるだろうか。35人も20人も変わらないなんてことが。でも、実際そうなんだ。驚くべきことに、これは単なる数の違いでしかない。この数の違いが、物語上なにか影響を与えるということは(まったく!)ないのだ。35人も20人も一緒ってこった。ここで嘆かれているものなんて、所詮、その程度のものに過ぎない。それが、この作品の浅さ/浅ましさをすべて表している。つまり、ここに描かれた女学生たちは、物語としての面白さを引き立たせるために、作品の生贄/奴隷にされた、単なる道具/記号に過ぎないってことだ。これ以上、なにか言うべきことはあるだろうか。