「衆院選2012<3>財政規律」
今回は財政のお話をしましょう。
まずもって問題になるのは、やはり財政規律の問題になるでしょう。国家財政が大赤字を抱えている事態を見過ごすことは出来ません。いわば、財布のガマ口が開いているような状態が長く続いているので、できる限り早急に収支のバランスを改善し、このガマ口を閉じなければならないのです。
これを達成するための方策は2つしかありません。その2つとは、当然、支出の削減と、収入増ということになります。この収入増のための手段のひとつとして、消費増税の話が出てきます。ぼく自身は消費増税には賛成ですが、もちろん、それが実際に収入増に繋がるかどうかという議論はありえます。ここには景気の問題が絡んでくるからです。
消費増税によって景気が悪くなってしまったら、結果的に税収が落ちてしまうかも知れません。ですから、実施時期の見極めに慎重になるのも止むを得ないでしょう。しかし、いずれにせよ、この問題は、やるかやらないかの問題ではなく、いつやるかの問題に過ぎないのです。
その理由は色々ありますが、そのひとつには(実際の財政状態はもちろんのこと)国際的信用の問題があります。つまり、日本は、いざとなったら増税(痛み)も厭わない国であるということを示さなければいけないのです。
これは国家というより、国民自身が示さなければならないことです。思い起こせば、遥か西方では、緊縮財政に国民が反対しまくって国際社会の顰蹙を買っている国もありますが、そういう国は信用されませんから、お金が集まりません。お金が集まらなければ景気も良くならないのです。
かの国の例でも分かるように、生活レベルを落とすということは、非常に難しいことだとされています。一度、高い生活レベルを味わったお金持ちが、収入が減ってもなお、その生活レベルを落とせずに零落していくというのは良くある話です。これはボクら一般にも当てはまる話です。収入が減っても、それには目をつむり、支出をそのままにしてしまう。その先にあるのは零落です。
そもそも、税金というのは皆のお金を集めて、皆で使おうという発想のものです。集まるお金が減ったならば、皆で使うお金も減らさなければならない。逆に、皆で使うお金の総額が増えたならば、集めるお金の額も増やさなければならない。当たり前のことです。
まあ、特定の党の批判をするのは本意じゃないのですが、たとえば小沢さんのように、「お金なんて、打ち出の小づちのように、振ればいくらでも出てくる」というのは、かつてお金がジャブジャブに余っていた頃の話です。いまはそういう時代ではありません。
たとえば、医療保険、年金、学校の授業料、道路の補修費、これらの支出(皆で使うお金)を維持したいのならば増税(集めるお金を増やす)が必要ですし、逆に、増税が嫌ならば、これらの支出でさえ削らなければなりません。
これらの(国家にとっての)支出は、我々個人にとっては、ある意味での収入になるわけですが、それが度を越したあげく、結局は借金(国債)によって賄われているわけです。それは、ぼくら個人個人が背負っている借金です。結局、使った分は払わなければいけないわけで、それを小手先で何とかなると思わせる政治家がいたとすれば、それは嘘です。
たとえば、「議員定数の削減」「公務員給与の削減」、あるいは「無駄遣いの削減」、こうしたものが耳に心地よく聞こえてしまうのは、それが単に(多くの)国民が自分たち自身の生活を切り詰めなくて済むものだからに過ぎません。
もちろん、それらも意味のないことではありませんが、現在、日本の国家財政の支出が増えているのは、そのほとんどが少子高齢化に伴う自然増ですから、無駄遣いの削減だけで乗り切れるというのは詭弁です。
つまり、議員定数の削減や公務員給与の削減、それらは単に一里塚であって、それだけで済む話では決してないのです。財政を仕切るものが先陣を切って身を削るのだから、我々も相応の覚悟を決めなければならないのは当たり前のことでしょう。我々は、国際社会に対して、そして我々自身に対してすら、自身が身を削れるということを、間抜けな零落貴族などではないということを、示さなければならないのです。
財政規律の問題は、一にも二にもぼくら自身の問題です。「増税反対」のような耳触りの良いキャッチフレーズをお題目のように唱えていれば済むという問題ではないのです。これはやるかやらないかの問題ではなく、いつやるかの問題なのです。