詩学は私の考えでは自然科学や社会人文科学とは根本的にその性質が違う。「詩」というものは科学の対象になるものとその性質が違うということである。
「詩」は純粋に想像された世界である。だから詩学というものもみな想像されたものである。想像された超科学的なものを科学として解明が出来ない。それ自体矛盾である。
「詩」という言葉にはそれ自体二つの違った意義が含まれている。内面的な意味と外面的な意味に分けることが出来る。それで内面的な意味の時は、私は外国語を使って区別をしようかと思う。それを「ポエジイ」という名称をつけておくことにしたい。内面的なことと言っても、しかしそれを定義することはむずかしいが、詩の精神とか、またはわれわれが詩作を読んだ時に感じた意識としての情念である。
外面的な意味のときは私は「詩作」(詩の作品)という言葉を用いることにしたい。
「詩作」は古代からギリシアでも中国でも古代インドでもみな言葉の音韻を用いて一定のリズムからなる音韻の形態である韻文で作られた。日本の和歌でも俳句でも同じことである。ところがヨーロッパでは十九世紀になってから散文で作るポエジイも現れはじめた。それのみならず「ポエジイ」は芸術の精神という意味にも使われるようになって、単に言葉で作るものばかりでなく、美術でも音楽でも建築でも芸術の精神という意味のときは「ポエジイ」という言葉を用いるようになった。芸術的創作という意味の時はポエジイという人がいた。これはドイツのロマン主義時代の文芸哲学者がおそらく初めてそういうように考えたのであろう。そうしたドイツの文芸論者の影響を受けた英国の詩人であり、文芸批評家コウルリッジなどは英文学の方面ではそうした考えを最初にのベた一人であった。
詩学はドイツではロマン主義時代になってから美学や象徴哲学や宗教や観念論と混乱して発達した。特に詩学は文芸論として発達した。また詩学は芸術論として考えられるようになった。
私はこの本ではそうした意味の体系づけられた詩学でもなく、詩の歴史的観察をしようとするのでもない。ただ十九世紀から今日までの間で私がすぐれたポエジイと思う詩人とそのポエジイの意味を自分ながらに解説してみたにすぎない。
「詩学」という意味は私にはポエジイというものは何であるかを学ぶという意味である。
西脇順三郎『詩学』筑摩書房、1969年、5-6頁。