写真徒然6<写真の詩学のために> | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


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「写真の詩学のために」

 写真に詩学というものはありえるだろうか。それは概念の方から規定されるものだろうか。それとも、物の方から規定されるものだろうか。言葉としての詩の特性を抽出して、それを写真に適用して考えるべきだろうか。あるいは、すべてのジャンルを横断する「詩的原理」といったものを想定し、そこから考えるべきだろうか。もし仮に「イメージの詩学」のようなものを措定できたとして、それから写真の詩学を分離することができるだろうか。

 そもそも、言葉による詩それ自体、それがどういうものであるかを言うことは難しい。たとえば、自由詩など、韻律を含まないものも詩であると考えるならば、それをどうして規定できるだろうか。それでも、敢えて試みるとすれば、たとえば、「詩は、個別の事象(=歴史)ではなく、それの背後にある普遍的なものを表す」、あるいは「日常言語は結果に重点がある(=媒体の透明性が求められる)のに対し、詩は言葉自体に重点がある」といったものをその原理として抽出できるかも知れない。

 しかし、写真というものは、その表現方法が厳密に規定されている。その媒体は、すべからく透明でなければならない。それこそが、まさに写真を写真たらしめているものだ。それは、果たして詩的なものでありえるのだろうか。たしかに、ボクらは実際、「詩的な写真」「ポエティックな写真」という言葉を使っている。それは、どういう場面において、どういう意味において使っているのだろうか。

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