
植田正治
≪裏街≫
1938
-2012年11月16日、東京都写真美術館にて-
詩的写真とはどういうものだろうか。ずっと、それを考えている。それは、概念の方から規定されるものだろうか、それとも、現物の方から規定されるものだろうか。写真展に行っても、展覧会の企画意図はさておいて、自分が詩的だと思う写真を眺めては、それがどうして詩的でありえるのかを考えている。
今回、最大の収穫だったのは、植田正治さんの≪裏街≫…今さら言うまでもなく、植田さんは日本写真史にその名を残す人。けれど、正直、今まで、あまり引っ掛かったことはなかった。でも、これは良かった。
これが詩的でありえるとすれば、それはどういう点であろうか。まずは、シンプルな構図による、画面の瞬間的な把捉が挙げられる。レッシングによれば、詩は何よりも全体を速やかに把握させなければならない。この素早さが何よりも大切だ。それが(ひとつひとつを説明していく)分析言語との違いである。
第2に、被写界深度が浅いことによる、鑑賞者の視線の揺動がある。焦点が合っている範囲はビシッと描かれているのに対し、背景はボケた描写になっているのだ。これは、上述の、画面の速やかな把握にも貢献している。対象と背景との間にはハッキリとしたメリハリが感じられるのだ。
そして、これは同時に、鑑賞者の視線を、奥行きから手前、手前から奥行きへと、常に動かしていく役割を果たしている。本来が継起的(時間的)芸術である詩が、空間的芸術である写真上で表せられる時、この作用によって、空間が時間に翻訳される。こうした視線の動きによって、時間感覚がもたらされるのである。
そして、最後、3つ目に、全てが描き切られていないことによる、想像の余地がある。詩は、継起的に対象を描くことにより、そこにイリュージョン(錯覚)をもたらす。それは、絵画による空間的なイリュージョン(=奥行き)とは違い、時間という軸に乗っかっているものである。それゆえ、あらゆる詩には、(どんな些細なものであれ)必然的に物語の契機が含まれている。
翻って、写真は対象を静止させるものである。その世界は、死の世界である。本来、それは何も語ることができないし、謳うこともできない。しかし、対象が描き切られていないならば、その対象は、想像によって生きることが出来る。ボクらは、この少女(あるいは少年)のまなざしを想像することが出来る。ボクらの想像の中で、そのまなざしは生気を帯び、物語の契機をその内に含むだろう。そしてそれは、時間的なイリュージョンへとボクらを導くのだ。