写真徒然4<旅> | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


 僕は旅の中で出会う光景に、いつもと少しだけ違う、それでいていつもとまったく変わらないような日常を見たいと思っているような気がする。それはもしかしたら、旅のなかでしか見ることができないような(自分にとっての)日常、と言い換えても良いのかもしれない。
 違う文化のなかでも変わらない些細な風景が、とても大事に思えることがある。言葉で説明すると、なんだか難しいのだけれど。
大和田良『伝わる、写真。』




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『旅』

 これまで、多くの写真家が、旅の重要性を強調してきました。写真というものは、基本的に切り取ることしか出来ませんから、とにかく被写体に巡り逢えなければ、お話にならないわけです。そのため、写真家にとって重要なのは、手よりもむしろ足だと言われたりもします(「手」の仕事は大部分カメラがやってくれるので)。

 そんななか、ボクの方は、あいかわらず、GSVでの旅を続けています。なんだか、ボクには、こっちの方が性に合っているという感じもしますな(* ̄艸 ̄)…GSVにおける旅というものは、仮想的なものでしかないわけですが、それでも、大和田さんが言っていることが、何となくボクにも分かるように感じてしまう部分もあります。

 旅先での体験。その真正性。それはGSVには存在しないものですし、GSVでは決して撮れない写真もあるでしょう。たとえば、被写体と関わって撮るような写真はGSVではありえないものです。そこはすべて既に一度切り取られた世界だからです。あるいは、解像度の問題もあります。たとえば、光と影の境界線、その繊細な階調の変化を捉えることはGSVのカメラでは出来ないでしょう。それから、もちろん選択範囲の限度もあります。GSVでは、GSV車の通った道、通った時間しか選択することができません。

 実際の旅における巡り逢いの大切さ、その体験の真正さ。ボクはそれを否定するつもりはありません。GSVでの旅は、あるいはそれらの薄められた体験でしかないのかも知れない。でも、ボクはそう思いたくはないのです。ボクにとって、GSVでの体験は、それはそれで現実のものだからです。

 ボクはデジタル時代の人間です。経験というものの一側面が、このような体験に基づいているというのは、現代におけるまた一つの真実でもあります。概念のレベルにおいてヴァーチャルとリアルは対置されるものではなく、むしろ重なり合うものですから*1、仮想世界の体験もそれはそれで真正なものであるという思いが、ボクには何処かあります。

 たしかに、GSVにおいて文脈を獲得するのは簡単なことではありません。景色はただ景色として流れていってしまうかも知れない。しかし、GSVで過ごした何百という時間、そこにはやはり何かがあったように思うのです。言葉にするのは、何だかとても難しいのだけれど。


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P.S.
 ここまで書いてきて、そういや、こんな話どこかでしたことあったな~と(* ̄艸 ̄)…その時の説明がここでも使えそうなので一部変えて持ってきました<(__)>

*1
VirtualとRealって話。
 ボクが色々と学んだことによると、Virtualって「あたかも」って訳すのが一番しっくりくると思うんです。Virtualって、そっくり真似するってよりは、たぶん様態を真似すること(=擬態)に近い…たとえば、あるダンスAの動きをソックリ真似するんじゃなくて、「あたかも」そのダンスA風に踊るって感じ。(=Virtual ダンスA)
 ドゥルーズは、「バーチャルは幻のような潜行するリアルそのものである。(=つまり、バーチャルそれ自体がリアルなもの。)」「バーチャルなもののアクチュアル化は真の創造である」と述べているんですが…つまり、何が言いたいかって言うと、たぶん、そもそも概念的に別の秩序にあるモノなんですな…VirtualとRealって(=モノマネ芸人の芸がそれ自体の価値をもつように、Virtualはそれ自体ですでにRealなもの。だから、真似した元のものには決して届かないし、届く必要もない)