異邦人とカリギュラ(そして少しネヴァーエンディングストーリー) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


(完全にネタばれします<(__)>)


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アルベール・カミュ作『異邦人』について、ちと思いついたこと…

  物語の中盤、主人公ムルソーはアルジェの浜辺で殺人を犯し、そして法廷で裁かれます。彼は一発(正当防衛に近い形で)撃ったあと、少し間をあけ、倒れたアラビア人の体に続けざまに銃弾を四発撃ち込んだのでした。問題の焦点は、彼の行動、とりわけ数秒間の空白です。法廷は、社会や家族や宗教など、様々な「枠組み」を持ってこの行動、そしてその空白の数秒間を説明しようとしますが、彼はそれら全てに是じえません。そして、かの有名な言葉、「それは太陽のせいだ」を発するのです。

 個々の存在そのものは不可知であり、我々はお互いを直接知ることは出来ません。ムルソーが独房で独白するように、「刑務所内の(それぞれの独房の)夕べ夕べがどんなものか誰にも想像はできない」のです。それは、まさしく我々そのもののようです。しかし、社会や法、宗教など、ある一定の「枠組み」に当てはめることで、我々は何か他者を理解できたように思い込みます。それが現実、あるいは常識というものの形です。しかし、ムルソーは決してそれを認めません。あくまでも理想-それそのものの形-を追い求めるのです。

 ここにおいて、決して手の届かぬ太陽は(現実と対比される)「理想」の象徴として現れることになります。彼は裁判において「理想-それそのものの形-」を追い求め、そして断頭台に送られます。母の葬儀ですら涙ひとつ見せずに煙草を吸い、葬儀の翌日には女と連れだって海水浴/映画に行っていた彼は、「社会的常識」によって「父さえ殺してもおかしくはない非道な人間」という型にはめられ、「太陽のせいだ」という言葉は理解できないもの-ナンセンス-として葬り去られるのです。しかし、これは「理想」が「現実」に敗北したことを意味するのではありません。物語の最後、かれは観衆の憎悪の叫びに迎えられる自分を望むようになります。彼は「彼なり」に母を愛していたことを最後の瞬間に悟るのです。これは、「理想」と「現実」の狭間で抹殺されながら、なおもそれを乗り越えていく人間存在の姿です。



 ここで興味深いのは、すべてを否定していった挙句に辿り着くのが母という血の繋がり-存在の原因-ということです。これはネヴァーエンディングストーリーにおいて主人公バスチアンが(ファンタージェンで)あらゆる望みを叶え、したがって望みをなくした時に辿り着いたのが母だったことを連想させます(http://blogs.yahoo.co.jp/flowinvain/29140507.html)。人は誰しも1人では生まれてこない。人は誰も白紙(タブラ・ラサ)ではありえない。そしてそれこそが、他者との繋がりの原点であり、誰しもみなそこに還ることで、他者との繋がりを確認することが出来るのだということが、ここには端的に描かれています。

ー閑話休題ー



 こうして見ていくと、『異邦人』の構造は同じカミュ作の『カリギュラ』と良く似ているように思います。カミュ自身、『カリギュラ』を『異邦人』『シーシュポスの神話』と並び、不条理三部作と位置付けていますから、もちろん似ていて当然なのかも知れません。

 『カリギュラ』において、地上のあらゆるものを手に入れた皇帝カリギュラは「おれはただ月が欲しいんだ」と決意し、決して手に入らぬもの=月を求めます。これは『異邦人』における太陽と類比的です。月はここでは『異邦人』における太陽―したがって理想そのもの―の役割を果たしています。カリギュラもまたムルソーと同じように理想をどこまでも追い求め、そして、(社会的常識によって抹殺されたムルソーと同じく)最後は常識=ケレアに刺されて絶命するのです。しかし、ここでも理想への希求は単に「常識」に刺されて死ぬだけの影ではありません。最後の瞬間、理想を追い求め続けたカリギュラはこう叫ぶのです。「おれはまだ生きている!」

<異邦人とカリギュラ(そして少しネヴァーエンディングストーリー)>


追記…
 さらに言うならば、(ボクが再三書いてきたように)『カリギュラ』は『竹取物語』に似ています。月の化身である<かぐや姫>は言い寄る男たちに「無理難題」をふっかけ、そして、帝や育ての親である翁の引き留めを振り払ってさえ、決して手の届かぬ月へと帰っていくのです。それはまさに、手の届かぬもの=理想というものを象徴的に表したひとつの寓話です。『竹取物語』が『カリギュラ』と異なる点があるとすればそれは、帝が<かぐや姫>に貰った「不死の薬」を焼くことで物語が終幕を迎えることです。『竹取物語』の帝は、理想への想いを断ち切り、現実を受け入れること-諦め-によって、理想と現実の狭間に生じたギャップを克服しようとするのです。