ブライティンガー壱(小田部胤久) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


 ブライティンガ-が問題とするのは、果たして詩の用いる記号が恣意的であるか、という点である。彼は言葉が基本的に恣意的記号であることを認める。しかし、同時に彼は「比喩的な言葉遣い、語法は必然的で自然的で現実的な記号である」、と述べている。ここでは、国王を意味する「国家の頭」という比喩表現のメカニズムにっいての彼の分析を参照することにしたい。頭という語と恣意的にしか結合しえない「本来の意味」は、この語が比喩的に用いられる場合にも存続する。つまり、ある語が比喩的に用いられるからといって、その語はそれと自然的に結合する別の本来的意味を獲得するのではない。比喩表現が成り立ちうるのは、語がその本来的意味の他に「像」をも表現し、この像が別の対象に置き入れられるからである。頭という語の表現する「像」、すなわち身体の上部にあるという性質が国家に置き入れられると、国王が国家の上部に存在する、という性質との類似性から、頭という語がここでは国王を比喩的に意味することになる。

 ここで第一に注目すべきは、この類似性がわれわれが恣意的に設定するものではなく、自然それ自体に基づく「必然的関係」であることである。つまりブライティンガーによれば、比喩表現はその本来的意味を存続させる点において恣意的記号でありながらも、同時に自然性、必然性を獲得するのである。さらに注目すべきは、「恣意的記号から観念を単に推測させる」にすぎない普通の言葉に村し、比喩的表現がその「像」によって観念を「いわば可視的にする」ゆえに、一種の視覚性、絵画性を獲得することである。

小田部胤久「記号結合術としての芸術」
『記号の劇場』谷川渥編、1988年、昭和堂