
写真が撮られた個別の状況を知っている限り、つまり、その写真が撮られた時そこに「何」があったかを知っている限り、その写真はその「何か」のindex として機能します。つまり、viewerの意識を強制的にその対象に仕向けるのです。
一方、その画像が写真だとは知っていても、つまり、その画像が写真術によって作られたことを知っていても、その写真が撮られた個別の状況を知らない場合、その写真はただ、その写真に写っている「それ/it」のindexとして機能します。「それ/it」が「何か」を言うことはできません。
たとえて言うならばこういうことです。目が覚めたら、一度も行ったことのない星に立っていたとしましょう。あなたはそこが何処かは分かりませんし、たとえ目の前に何らかの物体があっても、「それ/it」を「何」と言うことは出来ないでしょう。「それ/it」は確かにそこにある。しかし「それ/it」としか言いようがないのです。
そしてあなたは、「それ/it」の性質についても言うことができないでしょう。たとえば、三次元の物体であるのか、それとも単にスクリーンに投影されているのか。あるいは、近寄っていって直に触れられるのならば、「それ/it」の性質は分かるかも知れません。しかし、(写真の奥行きはイリュージョン=錯覚ですから)あなたは、そこから一歩も動くことができないのです。
一方、あなたは、「それ/it」が「木のようなものである」と言うことは出来るでしょう。しかし、そのことは「それ/it」を「木のようなものとして見てみよう」という可能性の提案をしているに過ぎないのです。(そして、この類似性による推測は、個別の状況についての知識がない時に、もっとも多く使われる認識の形式です-iconic sign)
ここで、あなたが、その星に至った旅の道程(すなわち、どのようにしてその星に至ったか)を覚えていたとするならば、そこが何処かは分かりますし、事前にその星についての知識を持っているとするならば、その星で目にしたものについても、「それ/it」が「何か」を理解することが出来るでしょう。写真が撮られた個別の状況を知っているということは、つまり、そのようなことを意味します。