
Bikash Dware / Reuters
C.S.パースは記号を「類似性に基づくイコン/類似記号」「隣接性に基づくインデックス/指標記号」「約定性に基づくシンボル/象徴記号」に分類しています。このうち、写真はインデックスに分類されているのですが、それは、写真が「対象からの発光の結果であることが知られているという事実に[2.265]」よっているのです。つまり、ぼくらは写真というもの一般が対象からの発光の結果であると知っているから、↑の写真が指標記号として機能することになります。
(注1.ここで注意しなければならないのは、我々はCGやデジタル操作の可能性も「知っている」ので、↑の画像が本当に対象からの発光の結果であるかどうかという点に疑義が生じるということです。まあ、この記事の趣旨はそこではないので深くは書きませんが、これを我々は様々な文脈によって判断しています。たとえば、イメージそのものが写真として自然であるかどうか。あるいは、これが掲載された媒体の信頼性はどうであるか等々…ちなみに、ぼくが書き込んでいるBikash Dware / Reutersという写真家とその所属のキャプションも、それに一役買うものです。)
ともあれ、パースによれば指標記号の機能は、対象に意識を向けさせるものです。「指標記号は理屈ぬきの強制によって注意をその対象に向ける[2.306]」のです。「もし指標記号を文で解釈するとすれば、その法は『御覧!』とか『気をつけろ!』のような命令法や感嘆法でなければならない[2.291]」のです。つまるところ、対象からの発光の結果として↑の写真を見る時、そこにあるのは「ほら、見て!」という指標記号の効果なのです。
しかし、指標記号それ自体は「何も主張しない[2.291]」のです。指標記号として写真を見る時、それは対象に意識を集中させるのみであり、それが何であるかは説明されません(それは後に述べるように象徴記号の機能です)。
さて、冒頭の記述でボクが「であろう」という言葉を使っていることに気付かれたかも知れません。この時、ぼくは↑の写真を類似記号として見ているわけです。少年や川という観念がボクの頭の中にあり、それが↑の写真に写っているものと結びつくわけです。この時、ぼくは↑の写真を少年や川という観念の類似イメージとして見ているわけであり、その限りにおいて、これは類似記号として機能しているわけです。
「確かに、かかわりを持つ対象が本当に存在しない限り、類似記号は記号として働かない[2.247]」のですが、我々はまず写真を指標記号として見ているので、それが何か対象を表しているという前提は既に確保されているわけです。(この前提のあやふやさに関しては注1で述べた通りです。)
しかし、指標記号と同様に類似記号も何かを主張するわけではありません。「類似記号が文によって解釈されうるとしても、その文は『可能法』でなければならない。つまり、その文は『図形が三辺を持っているとしよう』などと言っているに過ぎない[2.291]」のです。これがボクが「であろう」という言葉を使っている中身になります。つまり、「それを少年であるとしよう」と言っているのです。
写真を解読する上での最終段階は象徴記号(特に「論証」)によって果たされることになります。「ある対象を一般的に法則的に表意できるのは象徴記号だけであり、したがってわれわれは象徴記号によってのみ事象を記述し説明することができる(米盛裕二『パースの記号学』)」のです。
ぼくは、新聞記事やネットの記事を読み、この写真に背景を与えました。それらの記事は主に象徴記号(一般的言語)によって書かれているものですから、それは約定性に基づいています。つまるところ、それを信頼するかどうかは(ここでも)それが提示された様々な文脈に基づいています。
しかし、振り返ってみるならば、すべては写真の指標記号性、つまり「ほら、見て!」という機能から生じていることが分かります。この機能によって、ぼくはこの写真に意識を集中し、それの類似性によって「~を~であるとしよう」という可能性の判断を行い、最終的には様々な背景を把握することによって、「~が~である」という論証に至るわけです。(じつのところ、この記事ではしっかりとした論証の段階にまでは至っていません。ですから「であろう」という表現に留まっているわけです)
写真の力、それは何よりも「ほら、見て!」という力なのです。それによって、ぼくはその背景を調べ、このシリーズ記事を書くに至ったわけです。
※この一言を言うために、10本くらい記事を書いたっていう(^_^;)>
注2.括弧内の数字(→[0.000])は、その文がパースの引用であることを示し、数字はCollected Papers of Charles Sanders Peirceに対応しています。