「原子力は人間の手には負えない」・・・? | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


「原子力は人間の手には負えないのだ」
池澤夏樹『春を恨んだりはしない』p.78


このような表現、割りと見かけることが多いように思います。

とりわけ、福島第一の事故後では、実感を持って捉えられる言葉でしょう。

しかし、よく考えてみると、分かったような分からんような言葉です。


そこで、少し、この言葉を分析してみることにしました。

そもそも、「手に負えない」とはどういうことなのでしょうか。


「原子力は人間の手には負えないのだ」

という言葉を文字通りに理解しようとするならば、

「原子力を人がコントロールするのは不可能だ」

という意味に捉えることが出来ます。


さて、ここで少し考えてみる必要があります。

我々は、本当に原子力をコントロール出来ないのでしょうか。


たとえば、原子力発電所の場合。

通常運転の状態ならば、そこからエネルギーを取り出すことが可能であり、

また、問題になるような量の放射性物質が外部に放出されることはないのです。

通常、その状態のものを「手に負えない」とは表現しません。*1

したがって、原発の場合、通常時のように手に負えている時と、

事故時のように手に負えない時があるというのが実際の姿です。


つまり、冒頭の表現は、実際のところ、

「原子力は手に負えない時は手に負えない」

と言っているに過ぎません。


しかしながら、「手に負えない時は手に負えない」のは

火だって、水だって、車だって同じことです。

(人類がこれらのものを使用するようになってから、

 これらによる被害が無くなったことなど有りはしないのです。)


こと、エネルギー関連だけに問題を絞ってみても、

(原子力でなくとも)世界中で事故は起こっています。*2

それは、まさしく”プロメテウスの火”なのです。


もちろん、そのゆえをもって、

だから原発も認めろと言いたいわけではありません。

原発事故による被害というのは甚大なものです。

ぼくは、そのこと自体を否定したいわけではありません。


また、原発事故の特殊性というのも否定できないでしょう。

(被害が目に見えないという心理的側面もありますが、)

それは、事故収束の困難さと被害の(空間的/時間的)広範さです。


そこで、冒頭の表現「原子力は人間の手には負えない」が、

どういう意味内容を持っているかを厳密に定義するならば、

おそらく、次のようなものになるでしょう。

「一旦、原子力発電所が重大事故を起こした場合、

 その収束は極めて困難であり、かつまた、

 その被害は広範囲かつ長期間に渡って継続する」


さて、ここまでは論理上の手続きの問題でした。

ここで、ぼくの主張は次のようなものになります。


先に見てきたように、

「原子力は手に負えない」という表現は文字通りの内容を持っていません。

しかし、これを文字通りに受け取るとするならば、

「原子力は人間の手には負えない=人間は原子力を扱うべきではない」

という結論が必然的に含まれることになります。

「手に負えない」という言葉はそういうものです。

手に負えないんだから扱うべきではない。

実に自然な理屈です。

(冒頭で引用した池澤夏樹さんも、そのように論理を展開しています。)


しかしながら、ここまで述べてきた通り、

その言葉の意味内容は文字通りのものではないため、

冒頭の言葉から上述の結論を引き出そうとするのは、

実際にはただの欺瞞、あるいは希望的解釈に過ぎません。


「一旦、原子力発電所が重大事故を起こした場合、

 その収束は極めて困難であり、かつまた、

 その被害は広範囲かつ長期間に渡って継続する」

という前提からは、「人間は原子力を扱うべきではない」

という結論は、必然的には生まれ得ない筈だからです。


その結論に至るためには、

「その被害に人間社会が耐えられるかどうか、

 そして、それを踏まえてもなお、

 それを追求するメリットがあるかどうか」

という議論を踏まえなければなりません。


(もちろん、その議論を踏まえた上でなお、

 「人間は原子力を扱うべきではない」

 という結論が出ることは大いにありえるでしょう。)


ぼくは、「原子力は人間の手には負えない」

という表現を使うなと言っているのではありません。

それは、実感としては正しい言葉かも知れません。


しかしながら、こと文学者ともあろうものが、

自らが使っている言葉の意味もわかっていないのでは困ります。

これは、印籠のように使える言葉ではないのです。




注:*1
(もちろん、放射性廃棄物を継続的に生み出すという点で「手に負えない」という表現はありえますが、その場合、放射性廃棄物が手に負えないのであり、原発事故云々から生じてくる議論ではありません。もちろん、それを含めて原発は要らないんだという議論は大いにあり得ます。また、放射性廃棄物が本当に手に負えないのかどうかも、きちんと検討される必要があるのですが、少なくともこの記事では、福島第一での原発事故を受けての表現ということで考えています。)



注:*2
1975年8月  板橋・石漫灘ダム決壊(中国)
エネルギー源:水力
死亡者:17万1000人
(*諸説あり⇒http://ja.wikipedia.org/wiki/板橋ダム)

1979年 モーヴィ・ダム決壊(インド)
エネルギー源:水力
死亡者:1500人(推定)

1998年 ジェス石油パイプライン爆発(ナイジェリア)
エネルギー源:石油
死亡者:1078人

1944年 東オハイオ・ガス会社爆発(アメリカ)
エネルギー源:液化天然ガス(LNG)
死亡者:130人