第一原理
詩人というものは常に自らの個人的生活について書くものである。たとえば、その最高の作品において素材になっているのは、悔恨であれ失恋であれ、たんなる孤独であれ、ともかく彼の個人的生活の悲劇なのだ。といっても、詩人は朝食の食卓にいるひとに語りかけるように直接に物語るわけでは毛頭ない。そこには常に幻の世界がある。ダンテやミルトンには神話の世界があったし、シェイクスピアにはイギリスの歴史上の人物たちや伝説的なロマンスの人物たちの世界があった。また詩人がほとんど生身の自分自身を語っているように見えるときでさえも、たとえば、権力者たちが嘘をついたといって非難するローリーのような場合、あるいは「現世の圧迫を毛虫が膚を這うように感じとらずにはいられない敏感な神経」の持主シェリーのような場合、あるいは「剣の刀身がその鞘をすり切る」ように、「魂が胸をすり切る」といったパイロンのような場合とても、詩人は決して食卓につく移ろい易いはかなさと矛盾の束のような人間ではないのであって、彼はそのとき一つの観念として、意図された完全ななにものかとして生まれ変っていたのである。小説家なら自分の人間としての偶然性や矛盾をそのままに描くこともあるだろう、が詩人はそうしてはならないのだ。彼は人間というよりは類型であり、類型であるというよりは情熱なのである。彼はリア王であり、ロメオであり、オイデイプスであり、ティレジアスである。要するに芝居のなかから踏み出したものであり、彼が愛する女とても、それはロザリンド、クレオパトラであって、けっしてかの≪色黒き婦人≫(シェイクスピアがそのソネット集で歌った実在とおぼしき多情な女)ではないのである。詩人とは彼自らの幻の世界の一部であり、われわれが詩人を讃えるのも、それは彼によって自然が可解なものとなり、したがってわれわれの創造力の一部となりおうすからだ。「心が我の光のなかに溺れるとき」とプラシュナ・ウパニシャッドは語る、「それはもはや夢みることなく、依然肉のなかにありながら幸福に酔い痴れる。」「賢者は我のなかに」とチャンドジャ・ウパニシャッドはいう、「生者と死者を求め、世界が与え得ぬものを獲得する。」世界はなにも知らない、なぜならそれはなにものをもつくらなかったからである。われわれはすべてを知っている。なぜならわれわれはすべてをつくったからである。
「わが作品のための総括的序文」『筑摩世界文学大系71』野島秀勝訳