悪戦苦闘の連続だったボクの卒論。
その構想段階から、あっちこっちへフラフラと軌道修正するものでした。
その過程で付け加えられたり、あるいは、削ぎ落された要素もあり・・・
中には、ほぼ完成していながら最終段階で削られたものもあったのです。
・・・と、言うわけで・・・
早速、卒論の一部(未提出分)を掲載しちゃおう企画(* ̄艸 ̄)
単体で機能するように再構成していますが、
ちと、説明が必要な部分もあるかな・・・・
文中ではPhotographyという言葉に写真術という訳をあて、
写真=Photograph(つまり現物としての写真)と区別しています。
また、「化学技術による写真術」はフィルム式カメラなどの写真術を指し、
そうした化学技術によって撮影された写真は「銀塩写真」と呼んでいます。
(一方、デジタル写真術は電子工学による写真術ということになります。)
それでは、ご興味のある方はどうぞ<(__)>
『インデックスからイコンへ』
第1章:写真の死とは何か
デジタル写真術とは、既存の写真術を置き換えるという、単にそれだけを意味するものではない。1992年、当時のMIT(Massachusetts Institute of Technology)教授、ミッチェル(WilliamJ. Mitchell, 1944-2010)は次のように宣言する。
誕生後150年経った1989年を境に、写真は死んだ―いや、もっと正確に言えば、150年前の絵画と同じように、写真は根底からその地位を、永久に奪われてしまったのである。*1
(原文)From the moment of its sesquicentennial in 1989 photography was dead―or, more precisely, radical and permanently displaced―as was painting 150 years before.
この宣言を理解するためには、化学技術による写真術によって撮影された写真が、自然の痕跡という特権的な地位を与えられていたことを思い起こさなければならないだろう。銀塩写真は、パース(Charles Sanders Peirce, 1839-1914)による記号の3分類のうち、指紋のような物理的結び付きによる記号、インデックスに含まれる*2。インデックスとしての写真理解について、写真史家バッチェン(GeoffreyBatchen, 1956- )は次のように説明する。
インデックスとして、写真はけっしてそれ自体ではないのであり、むしろつねに、<まさに本来的に>、他のものの痕跡なのである。*3
つまり、銀塩写真は記号として対象を指し示すものであり、まさに指紋のように現実を写し取った痕跡であるとされるのである。そして、この痕跡は撮影原板という形で保存される。東京都写真美術館の金子隆一はこう述べる。
写真画像の記録性は何によって保証されているのか、といえばネガ・フィルムを含めた「撮影原板」に他ならない。つまり「撮影原板」という存在がなければ、写真はその証拠能力を発揮できないといっても過言ではないだろう。*4
撮影原板の存在が銀塩写真の証拠能力を担保するのである。そしてまた、銀塩写真は修整が困難な物なのだ。ウィルス(Anne-Marie Wills)の次のような指摘は的確である。
(原文)The operations of the darkroom processor affect the final image but s/he cannot individually manipulate each grain of silver.
(筆者訳)暗室処理の操作は最終的なイメージに影響を及ぼすが、しかし、彼女/彼は銀の各々の粒を個々に操ることができない。*5
銀の粒ひとつひとつを操ることが出来ない銀塩写真においては、修整は困難であり、また、物理的に手を加えたことが分かってしまうのである。こうして、オリジナルである撮影原板の存在によって、写真は現実を写したものであるという信頼が人々の間に与えられることになる。ボルツ(Norbert Bolz, 1953- )は、信仰という言葉を使って、この状況を記述している。
画像が現実を正直に写しているという信仰は、写真という技術とともに始まったものである。その技術の発見者フォックス・タルボットは、この技術を、なんと「自然の鉛筆」と名付けたものだ。自然が自分自身を記録するー但し写真として。この信頼が、ディジタルの画像技術によって根底から揺るがされることになる。*6
「画像が現実を正直に写しているという信仰」はデジタル写真術が隆盛になると共に終焉を迎えることになる。ミッチェルやボルツがこう主張する背景にはいくつかの理由がある。まず、デジタル写真術において写真はデジタル情報として記録されるということである*7。ミッチェルはこう述べる。
デジタル情報の本質的性格は、コンピュータを使えば簡単に、しかも高速に操作可能であることだと言ってもいい。なにしろ、元の数を新しい数に置き換えるだけでいいのだから。事実、デジタル画像は、写真、絵画、そのほかどんな種類の画像よりも容易に手を加えることができる。*8
(原文)the essential characteristic of digital information is that can bemanipulated easily and very rapidly by computer. It is simply a matter of substituting new digits for old. Digital image are, in fact, much moresusceptible to alteration than photographs, drawings, paintings, or any other kinds of images.
ここでミッチェルが言う写真(photographs)とは、いわゆる銀塩写真のことであるが、一方、デジタル情報として記録された写真は、容易に、かつ、跡を残さずに修整が出来るのだ。前川修がミッチェルの主張を簡潔にまとめているので引用してみよう。
デジタル・イメージの特徴として主張されるのが、イメージの修整可能性である。デジタル・イメージの制作過程は、写真に付随してきた修整の痕跡の明白さという特性を消し去り、それゆえ、写真の根幹だった、写真は本来手を加えられるべきものではないという「モダニズム的」前提を曖昧なものにしてしまう。*9
修整が可能であり、その修整が跡を残さないものであることが、ミッチェルが写真に死を宣告する主な理由である。彼は、この状況を「それはちょうど、写真自体が手描きの画像の後継者となったのと同じことなのだ。*10」と明快な言葉で説明してみせる。
さらに付け加えると、デジタル写真術では銀塩写真の撮影原板にあたるものが残らない*11。つまり、証拠能力を担保するものがデジタル写真術には残らないのだ。そしてまた、デジタル情報は劣化せずに無限に複製することが出来ることも特性である。ミッチェルが、
離散量の情報は厳密に複製することが可能で、オリジナルから1000世代を経たデジタル画像であろうと、その祖先のどの世代と比べてみても質の良し悪しではまったく区別がつかない。デジタル情報の末裔はけっして落ちぶれることがない。それはオリジナルとまったく識別不可能なコピーなのである。*12
と言うように、原板が存在しない上に、劣化せずに無限に複製が可能なデジタルにおいては、オリジナルという概念は意味を持たない。すべてがデータ化され、簡単に修整が可能であり、さらに、原板が存在せず、無限に複製可能でオリジナルというものが存在しないデジタル写真術においては、たしかに、化学に基づく写真術において見られたような自然との特殊な関係は望むべくもない。つまり、化学の技術によって痕跡という特権的な地位を与えられていた写真術が、デジタル写真術の出現によって「写真と自然の中にあるものとの関係そのものが疑問視されるようになった*13」のである。その意味において、ミッチェルの「写真は死んだ」という表現はふさわしいかもしれない。
しかし、ミッチェルが写真に死を宣告してから約20年が経った現在、「写真は死んだ」というよりも、むしろ、デジタルと共存するようになっている。現在の状況を、前川はこう分析する。
写真は、デジタル・イメージと対立するというよりはむしろ、デジタル・イメージという記号によって指し示される記号になっている(記号の記号としての写真)。*14
ここで言われているのは、まさに写真とデジタルとの共存であり、写真は「写真」として温存されているという状況である。なぜだろうか。2009年、ベイト(David Bate)はこう述べている。
デジタル写真でのリアリティをもたせる効果のいわゆる喪失は、たとえば2004年のアブ・グライブ刑務所のデジタル写真の信憑性に、否定的な影響を及ぼすことはほとんどなかった。あるいは、それと同じことが、日常のニュース写真にも言えるし、われわれは相変わらずそれを「額面通り」受け取っている。*15
写真の信頼性は損なわれていない。なぜ、そうなのかということに関して、ベイトは答えを与えていないが、結果として写真の信頼性は損なわれていないという指摘は重要だ。それは、あるいは一種の文化、写真術の誕生以来150年に渡って培われた、写真的なものを信仰する文化によるものかも知れないし、写真がインデックスとは別の何かに変わっているからかも知れない。1991年、ウィルスはゾンビという印象的な言葉を使っているが、この言葉は予見的だ。
(原文)In some ways we are facing the death of photography - but as in movie fiction the corpse remains and is re-animated, by a mysterious new process, to inhabit the earth like a zombie.*16
(筆者訳)いくつかの点で、我々は写真術の死に直面している-しかし、映画フィクションのように、不可解な新しいプロセスによって、死体は残って蘇生される。ゾンビのように地球に暮らすために。
むしろ、こう言えるかも知れない。デジタル化されることによって、写真(photograph)は何か別のものとして生まれ変わるのである。次章では、その一例としてGoogleMapsを考えてみよう。