『サマータイムマシンブルース』に見るストゥディウムとプンクトゥムの考察 | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


前期に提出したレポートが返ってきました。

映像論・・・みたいな感じですかね(* ̄艸 ̄)

ご興味があればどうぞ<(__)>

あ・・・思いっきりネタばれしてます←言い忘れ(笑)



映画『サマータイムマシンブルース』に見るストゥディウムとプンクトゥムの考察


1.シーンが参照する文脈によって、そのシーンの意味は変わる

 映画『サマータイムマシンブルース』(本広克行監督)は、文字通りタイムマシンの登場する映画である。この映画のポイントは、タイムマシンで遡る過去が<昨日>ということだ。映画の舞台は2005年の8/19~8/20なので、以後、その<昨日>を8/19とする。映画の冒頭は8/19から始まる。したがって、タイムマシンで8/20からやってきた登場人物たちが、映画の冒頭に登場している。映画の冒頭、SF研の部員たちが野球をしているのだが、それを、タイムマシンで8/20からやってきた同じ登場人物が覗いているのだ。もっとも、それは画面の端に非常に小さく映っているし、レンズの焦点は野球をしている人物たち(そして、それを写真で撮っている人物)に合っているので、最初からそこに注意を向ける人はなかなかいないだろう。

 もちろん、同じ人物が同一シーンに登場することは不可能なので、これは別の人物(スタントマン)か、あるいは合成である。しかし、本論のこの段階では、それはまだ問題にしない。
 
 ともあれ、大抵の人は、映画を見返してみて初めて、画面の端に小さくボケて映っている人物たちの存在に、そして、その人物たちが野球をしているのと同じ人物だということに気付くだろう。このことによって理解できるのは次の事実だ。つまり、映像の意味は、それが参照する文脈によって変化するということだ。この場合、参照されているのは物語の筋そのものである。

 同様のことは、別のシーンからも推察できる。物語の焦点になっているのは、エアコンのリモコンに液体(コーラ)がかかってしまうというシーンである。このシーンは映画中で2度登場する。つまり、まったく同じ映像が2度、流れるのだが、1度目に見る時と2度目に見る時では、それが意味するところは全く違う。2度目のシーンでは、観客は、そのリモコンが25年先から来たリモコンだということを知っているからだ。

 これは見方を変えれば、映像は、映像それ自体を参照することによって、自らに別の意味を持たせることができるということを示している。つまり、編集によって時間を切り貼りし、それを一つの時間の流れに載せることによって、映像は、画面に映っているものを別のものとして読ませることが出来るということである。


2.映像の解釈には幅が存在する

 これを、物語の世界から外れて、もう少し外側から見てみることにする。もちろん、現実にはタイムマシンが存在しない以上、リモコンは25年後から来たリモコンである筈がないし、冒頭の場面に小さく映っているのは未来からの訪問者であるわけがない。これらのこと(それが起こり得るはずがないということ)を事実と見なすならば、物語によって、ぼくらは、事実とは別のことを認識してしまったということになる。これは、虚構とかウソのレベルとは少し違うだろう。この場面そのものがウソをついているわけではないからだ。そこに映っているのは、ありのままのリモコンでしかない。これは、つまり、読み手(観客)の側に存在する解釈の幅の問題なのである。映像から意味を読み取ろうとする場合、ひとつのシーンそれのみでは解釈は完結せず、その前後の映像や映像の外側に存在するものによって、ぼくらの解釈は変わるということなのだ。

 映像は時間に属しているので、そこに物語が生じるのは、どうしても回避できない。撮影は、それ自体が世界を断片化するという行為である。写真と違って、映像においては、断片は断片のままであることは出来ない。上記の例でみたように、一つの時間の流れの中に取り入れられた断片は、断片同士が相互の文脈と化し、そこに物語が生じる。たとえばシュルレアリスト流に相互にまったく関係のない映像を繋ぎ合わせてみても、人はそこに偶然性か、あるいは何がしかの意味を読み取るだろう。ひとつの場面に映っているものの解釈は、そうした文脈によって変容しうるような幅を持ったものなのである。


3.ストゥディウムとプンクトゥム

 一方、映像には文脈に依存するもののほかに、文脈に依存しないものも存在している。ロラン・バルトの用語を借りて、一方をストゥディウム、もう一方をプンクトゥムと呼ぶことにしよう。もちろん、これは写真の用語なので、バルトが使う意味とは厳密には一致しないことをお断りしておく。ストゥディウムとは一般的関心であり、教養文化を仲介として、対象を意味づけるものである。一方のプンクトゥムは点のことであり、鑑賞者を突き刺す細部のことである。

 冒頭のシーンでは、SF研の部員たちが野球をしているということや、画面の隅に映っているのが未来からの訪問者であるという理解がストゥディウムに属し、野球をしているSF研の部員を撮影する真木よう子の<あの>まなざしや、少し剥げた芝生の<あの>緑や、シロツメクサの花が茫々と生えている<あの>感じがプンクトゥムに属する。あるいは、リモコンのシーンでは、そのリモコンが25年後からやってきたという理解、あるいは、それがエアコンを作動させるものという理解がストゥディウムに属し、古ぼけたリモコンの<あの>薄汚れた感じがプンクトゥムに属する。ぼくが、あの、という言葉で言い表そうとしたその中身は言葉には還元できない。言葉には還元できないもの。それは突き詰めれば、それが、そこにあったということである。


4.映像の両義性

 プンクトゥムによって僕らが受け取るものは、文脈によって左右されることはない。プンクトゥムは点であり、瞬間に属する。それは、画面そのものからやってくるのだ。たとえ制作者が画面上の全てをコントロールしようとして、時にはCGを用い、時間を切り貼りして、ぼくらに物語を見せようとしても、カメラは、どこまでもそれに抵抗するだろう。制作者のコントロールを逃れ、それがそこにあったことを証すのだ。

 たとえば、ぼくが90年代当時に見た映画を2011年の今、見返してみるとしよう。すると、90年代当時は当然のものとして受け取っていたもの。何も意識せずに透明なものとして受け取っていたもの。たとえば、髪型であるとか、服装であるとか。そういったものが、何か、その時代特有の匂いとして立ち現われてくる。それらは撮影者や制作者の意図を越えて、画面の中に閉じ込められている。そして、それがそこにあったということを証すのだ。

 一方、制作者がカメラの映し出したありのままだけを抽出しようとしても、映像はどこまでもそれに抵抗するだろう。映像はシーンとシーンを結び付け、そこに物語を生じさせる。どんな映像も物語だけに徹することは出来ず、また、画面だけに徹することも出来ない。したがって、どのような映像ドキュメンタリーもストゥディウムとプンクトゥムの両方の側面を持っていることになる。ここには映像そのものが抱える両義性が現れている。


5. すべての映像ドキュメンタリーが共有しなければならないこと

 事実とは、現実にそれが起こったことであり、虚構とは、現実にはそれが起こらなかったこと(それをあたかも起こったかのように見せること)である。物語は(言い換えればストゥディウムは)たとえば、そのリモコンを「25年後のリモコンである」というように虚構を語ることも出来るし、また同様に事実を語ることもできる。そして、当然のことながら、ドキュメンタリーは、事実に属する。

 僕の考えでは、演出=虚構ではない。なぜならば、それは現実にそこで起こったことだからである。したがって、映像ドキュメンタリーは、フラハティのように演出をしたり、メカスのように(自分にとっての事実を)語ったり、マイケル・ムーアのように自分の考えを主張することすら出来るだろう。

 しかし、すべての映像ドキュメンタリーが共有しなければならないことが、たったひとつだけある。それは、画面に映った全てのものを、時には制作者の意図に反するかも知れない全てのものを、すなわち、あらゆるプンクトゥムを、映像ドキュメンタリーは尊重しなければならないということである。なぜならば、物語は事実を語ることも出来れば、虚構を語ることも出来るのに対して、プンクトゥムは事実を語ることしかできないからだ。

 であるからこそ、歴史再現ドキュメンタリーなどでは、画面の隅に、「これは再現イメージです」と断りを入れているのだ。それこそが(逆説的ではあるが)まさに、映像ドキュメンタリーにおいてプンクトゥムが尊重されている証なのである。これは再現映像だから価値がないという言明なのではない。これは、この映像が、当のドキュメンタリーの対象となっている歴史的場面とは違うもの、すなわち、この映像がそれ以外の何物でもないオリジナルであるという言明、それがそこにあったという言明なのである。


参考文献
ロラン・バルト『明るい部屋 : 写真についての覚書』花輪光 訳、みすず書房、1986