普段、いかに自分がカメラの描写力や現像時の画作りに頼っているか。
GSVを切り取っていると、そのことを強く思い知らされる。
新世代のGSVは確かに良く写っている。でも、あまりに平板だ。
そうなると、フレーミングの良し悪しというのがモロに表に出る。
だから、敢えて旧世代の画像を探したりする(* ̄艸 ̄)
思うに、写真家にとって必要な能力というのが幾つかある。
GSVを切り取りながら、決定的に、それがボクに欠けていることを感じる。
これを人間の五感に類比させながら語ってみようと思う。

『写真家の能力』
①視覚
第一は言うまでもなく視覚である。
その描写において、「手」を介在させる余地のない写真家にとって、
「良い画を見つける能力」は、すなわち「良い画を作る能力」である。
場面を切り取る能力、すなわちフレーミングがこれに該当する。
これは、この後に登場する他の全ての能力と同様に、
先天的なものであると同時に、鍛えることの出来るものである。
アンドレ・ケルテスのような(誰も真似できない)天才もいれば、
ダグ・リカードのように、他人の写真を見る(批評する)ことによって、
自分の内に、その能力を培っていく人もいる。
写真の世界においては、優れた批評家がまた同時に、
優れた写真家だというのは、(あるいは、その逆もまた)往々にしてある。
(c.f.シャーカフスキー)
世界をフレーミングすることによってイコンへと変えること。
これが、写真家にとって必要な第一の能力である。
②聴覚
聴覚。写真家にとって、これは画面内の声を聞き分ける能力である。
優れた写真家は、この能力によって、様々な対象に言葉を付与する。
「語れない写真」は、得てしてつまらないものになる。
また同時に、優れた写真家は、画面内の声を従わせ、
個々の写真を並べることによって「ある物語」を語る。
時として、それは陳腐なものにもなり得るが、
優れた写真集は、言葉が添えられずとも雄弁に物語るものである。
(c.f.ポール・フスコ『RFK』)
③嗅覚
かつて、カルティエ=ブレッソンは写真家を「狩人」に例えた。
優れた狩人は、常人には嗅ぎ分けられないような
微かな匂いを頼りにして、獲物をモノにする。
写真家にとって「獲物」とは、すなわち「主題」である。
主題を「嗅ぎ分け」、狩る能力、これが写真家にとって必要なのだ。
これがなければ、街を歩いていても、ただ漫然と時間を費やすだけで、
良い主題には決して巡り逢うことはないだろう。
そう、ボクがGSVで漫然と何時間も過ごしてしまうように(* ̄艸 ̄)
④味覚
味覚。写真家にとって、これは主題を味わう能力である。
嗅覚がない写真家は、良い主題に巡り逢えないが、
味覚がない写真家は、たとえ良い主題に巡り逢っても、
そのことに気付かないでサッと通り過ぎてしまう。
また、これは同時に場面を調理する能力をも意味する。
たとえ、どんなに優れた主題であっても、ただ消化するだけでは、
(適当に調理するだけでは)その写真には深みがなくなってしまう。
じっくりと場面の中を見つめ、時間を掛けて構成する写真家もいれば、
カルティエ=ブレッソンのように、瞬く間に場面を構成する写真家もいる。
しかし、たとえ時間を掛けようが瞬間的に構築しようが、
味わえるような深みがない写真は(まさに)頂けない。
(時間を掛ければ料理が良くなるわけではないのと同じことだ)
見れば見るほど味わいが出て来る写真。
これを調理し得るのは、写真家の味覚なのだ。
(c.f.ウォーカー・エヴァンス)
⑤触覚
触覚。それは対象に触れ、愛でる能力を意味する。
対象(主題)に対する「愛」が感じられない写真は、
そもそも、それが一体、何のために撮られたかすら分明ではない。
GSVを切り取る上で、これが最も致命的に欠けやすい性質である。
なんとなれば、一度も行ったことがなく、当然、触れたこともなく、
そして、時には、思いつくがままに降り立った場所なのであるから。
同じようにGSVを切り取っていても、ダグ・リカードはその限りではない。
彼の写真からは、主題に対する深い愛情の眼差しが感じ取れる。
彼は、自分が実際に行った土地に、GSVで降り立つのだそうだから、
それは、むしろ当然のことなのかも知れない。
彼にとって、(実際はどうであれ)そこに写っている人は他人ではないのだ。
つまり、個々の対象それ自体に対する愛でなくとも良いということだ。
たとえば、人間存在/世界そのもの。それに対する愛が写真には必要だ。
(c.f.ダグ・リカード『A New American Picrure』)
⑥インスピレーション(霊感)
実際に第六感なんてものが「存在」するか、
そんなことはボクには分からない。
しかし、インスピレーションは写真家にとって重要な能力である。
インスピレーション。
ありとあらゆるものを外界から獲得する写真家にとって、
それは、自分の内に秘めているものを写真に託す能力である。
そもそも、写真に写真家自体が写るのかどうか、
それは、きわめて大きな問題提起を孕んでいる。
しかし、インスピレーションに優れたごく一部の写真家は、
この写真はまさしく自分でしか撮りえないと主張しえるような、
圧倒的な天賦の才を持っているものである。
この能力だけは、もしかしたら鍛えようがないのかも知れない。
(c.f.ライアン・マッギンリー/藤原新也)