作者は作品を生み出さないが、その逆は真である。作品は、その作者を生み出すのだ。そして作者は幻想であるだけではないし、ただたんに幻想であるわけでもない。作者は、作品の上に投影されたはかない幻影(ファントム)ではない。それは作品の特異体質であり、あるいは厳密な意味における作品の図像[iconographie]である。
-ジャン=リュック・ナンシー/フェデリコ・フェラーリ
Google Street View(=GSV)を切り取っていて気付くことがあります。
それは、主題の設定やフレーミングなども含め、
かなり自由に切り取ることが出来るということです。
実際、切り取られた画像を見れば、誰の作品か分かるほどです。
水平に360°垂直に290°のパノラマ画像であるということ、
そして、その中で好きな方向を自由に見ることが出来ること、
さらに、このパノラマ画像が一枚だけで完結しておらず、
約10m間隔で、(撮影された)道の方向に進めるということ。
そして、その範囲と規模が前例がないほど広大であること。
これらのことによって、かなりの程度、
切り取った画像/作品に、その人の独自性が現れます。
これは、GSVが透明な媒体であるということを示唆します。
透明であるからこそ、誰かの作品になりえるのです。
ここで見て取れるのは「作者」と「制作者」の乖離です。
(ここでの「作者」は作品をわが物として主張する個を指します)
いくつもの例。
拾った写真を集めて呈示するヨアヒム・シュミット、ホンマ・タカシ、
さらには、ネット上で集めた画像を再提示するトーマス・ルフ。
そして、GSVの画像を作品として提示する幾人かの写真家たち。
これらは、すべて、作者不詳の画像を作品とする行為であり、
「制作者」と「作者」の分離という観点から見ることができます。
しかし、当然のことながら、GSVには制限(=不透明性)もあります。
これは、言い換えれば、GSVに固有の表現があるということ、
つまり、GSVがGSV画像の作者であることを主張するものです。
第一には、視点の問題があります。
GSVのカメラは車上2.4mという高さに設置されています。
(注:日本においては、抗議を受けて約2mに切り替え中)
すなわち、2.2mの高さから見た世界というのが、GSV第一の特徴です。
しゃがんで撮影したり、カメラを掲げて撮影するといった、
対象をハイアンングル/ローアングルで撮るという選択肢は、
そもそも、初めから与えられていないのです。
第二の特徴は、撮影されているポイントの間隔の問題です。
進めるといっても、それは10m間隔で、一定の方向にしか進めません。
わずかに横にスライドしたり、一歩だけ前に進むことはできないのです。
第三には、時間的な制約があります。
すべての画像は、ある日、ある時に、すでに撮られてしまったものです。
ある場所で朝日/夕日を狙うという選択肢は与えられていません。
切り取る「作者」は良い光で写っていることを期待するしかないのです。
多くの場合、GSVは日中の太陽が高い時間に撮影を行っていますが(↓)
撮影ルートを決めるときには、太陽の位置に気を配ります。また、建物に影がかかって見にくくならないよう、太陽の位置が高い間に撮影する必要があります。天気や温度も考慮します。雪や雨だったり霧がかかっていたりすると、画像が不鮮明になる上、運転にも余分な時間がかかります。(GSVヘルプより)
しかし、当然のことながら撮影中に日が暮れてしまうこともあるし、
いつのまにか、天気が崩れてしまうことだってあるのです。
実際、そういう画像を見かけることは良くあります。
(もちろん、大半は天気の良い日中の画像なのですが)
つまり、これは、GSVの画像を
「GSV車がある時間、ある地点を通過したという一種のイベントの記録」
として見ることが出来るということを意味します。
これが明確に分かるのは、
他でもないgoogle本社周辺の画像です。(↓)
ここでは多くの人がGSV車を見送っているのですが、
これはPaul Fuscoの写真集『RFK』を連想させるものです。
RFK(ロバート・ケネディ)の葬儀列車を見送るイベントの記録と、
GSV車の出立を見送るイベントの記録とが、こうして交錯します。
GSVでは、周辺の画像が新世代の画像に切り替えられる一方、
google本社近辺のみ旧世代の画像が残されています。
これは、明らかにこの旧世代の画像がgoogle社内において、
記念写真(=イベントの記録)として扱われていることを意味します。
GSVに存在する、ある種の透明性は、これを切り取り、作品とし、
これを我がものだと「提示者」が主張することを可能にします。
つまり、「提示者」こそが「作者」であるという主張です。
しかしながら、GSVは完全に透明ではないがゆえに、
これがGSVの画像であると強く主張もするのです。
つまり、それは「制作者」こそが「作者」だという主張なのです。