
「ヴァーチャルなものは問題提起(な複合体)として存在する」
ピエール・レヴィ『ヴァーチャルとは何か?』
種子の中に木がヴァーチャルに存在する。
前回の記事では種子が木になるプログラムが、
種子の中にあらかじめ仕込まれていると述べました。
種子の問題を考える前に、
彫刻家と大理石の関係を再び振り返ってみましょう。
「彫像が大理石の塊の中にヴァーチャルに存在する。」
という時、それは彫刻家にとってそうなんだと述べました。
彫刻家が大理石の塊を前にして、そこに問題を発見する。
彫刻家の問題意識は大理石の塊に投げ掛けられ、
そこで彫刻家に対する問題提起として投げ返される。
この時、彫像は大理石の塊の中にヴァーチャルに存在します。
virtual imageという言葉が虚像を意味するように、
ヴァーチャルなものは鏡に映った虚像のように存在するわけです。
アクチュアルな彫像は、この問題提起に応えて現れます。
ここでアクチュアル(現実的)という言葉を用いるのは
「潜在的(ヴァーチャル)なものは実在的(リアル)なものには対立せず、ただ現実的(アクチュアル)なものに対立するだけである。潜在的なものは、潜在的なものであるかぎりにおいて、ある十全な実在性を保持しているのである。」
ジル・ドゥルーズ『差異と反復』
からです。
ともあれ、種子の場合を考えて見ましょう。
この問題提起は種子から種子自身に投げ掛けられ、
種子自身の素材を用いて種子自身によって解決されます。
「種子は木を発明しなければならず、自らが出会うであろう環境と共に木を創り出さなければならないのである」ピエール・レヴィ前掲書
ぼくは、これを種子のプログラムと呼びました。
このプログラムは様々な環境と協同しながら、
木という目的に向かって問題を解決していきます。
すなわち、プログラムとはヴァーチャルなものを
アクチュアル化するための、言い換えるならば、
提起された問題を解決するための一連の戦術です。(この言葉、要検討)
さて、これらのケースで鍵になっていることがあります。
それは、ヴァーチャルなものの自律性と対話性です。
これこそが、現代においてヴァーチャルという言葉が
大きく問題になってくる原点になっているように思うのです。
「この段階では、ヴァーチャルなものがわれわれの代わりに思考する。思考の主体も、行為の主体も、もはや必要ではない。すべてはテクノロジーという媒体をつうじて生じることになる。」ジャン・ボードリヤール
つづきは次回<(__)>