
「ヴァーチャルなものは問題提起(な複合体)として存在する」
ピエール・レヴィ『ヴァーチャルとは何か?』
ヴァーチャルなものは、あらかじめ全て構成されているわけではない。
これによって、「彫像が大理石の塊の中にヴァーチャルに存在する」
という言葉が理解できたのでした。
しかしながら、この問題提起とは、誰にとっての問題提起なのでしょうか。
それは、やはり(彫像の場合)彫刻家にとってなのです。
大理石の塊を見たのが石屋ならば、それは建材になったでしょう。
つまるところ、「彫像は大理石の塊の中にヴァーチャルに存在する」とは、
「彫刻家にとって彫像は大理石の中にヴァーチャルに存在する」
と言っているにすぎません。彫刻家がいなければ彫像もないのです。
この命題を、あらゆる人に適用できるように言い換えるならば、
「すべての大理石彫像は大理石の塊の中にヴァーチャルに存在していた」
ということになるでしょう。
こうして、ヴァーチャルというものが、じつのところ、
過去に属していたということが明らかになります。
「A(大理石彫像)」と「B(大理石の塊)」を見比べて、
Aが、かつては(別の)B’の中にヴァーチャルに存在していたと考える。
そして、目の前のBのなかにもAがヴァーチャルに存在すると類推する。
このケースにおける「ヴァーチャルなもの」の認識は
(少なくとも彫刻家以外の人間にとっては)そうしたものです。
一方、「木は種子の中にヴァーチャルに存在する」とは、
「すべての木は種子の中にヴァーチャルに存在していた」
だけなのでしょうか。ここでも問題は主体の問題になります。
人間にとって、木が種子の中にヴァーチャルに存在するのは、
彫像と同様に、やはり類推によってのみ知ることが出来ます。
この限りではヴァーチャルな木は過去に属していることになります。
しかしながら、彫像のケースとは違うことがあります。
種子が木になるのは「プログラム」として、
種子自体の中に最初から仕込まれているのです。
これは認識主体の如何に関わらず変わりません。
プログラム・・・
ようやく、現代的なヴァーチャルの概念に
関わりがありそうな言葉が出て来ました。
つづきはまた次回<(__)>