卒論メモ13 | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


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「ヴァーチャルなものは問題提起(な複合体)として存在する」
ピエール・レヴィ『ヴァーチャルとは何か?』

ヴァーチャルなものは、あらかじめ全て構成されているわけではない。

これによって、「彫像が大理石の塊の中にヴァーチャルに存在する」

という言葉が理解できたのでした。


しかしながら、この問題提起とは、誰にとっての問題提起なのでしょうか。

それは、やはり(彫像の場合)彫刻家にとってなのです。

大理石の塊を見たのが石屋ならば、それは建材になったでしょう。


つまるところ、「彫像は大理石の塊の中にヴァーチャルに存在する」とは、

「彫刻家にとって彫像は大理石の中にヴァーチャルに存在する」

と言っているにすぎません。彫刻家がいなければ彫像もないのです。


この命題を、あらゆる人に適用できるように言い換えるならば、

「すべての大理石彫像は大理石の塊の中にヴァーチャルに存在していた」

ということになるでしょう。


こうして、ヴァーチャルというものが、じつのところ、

過去に属していたということが明らかになります。


「A(大理石彫像)」と「B(大理石の塊)」を見比べて、

Aが、かつては(別の)B’の中にヴァーチャルに存在していたと考える。

そして、目の前のBのなかにもAがヴァーチャルに存在すると類推する。

このケースにおける「ヴァーチャルなもの」の認識は

(少なくとも彫刻家以外の人間にとっては)そうしたものです。


一方、「木は種子の中にヴァーチャルに存在する」とは、

「すべての木は種子の中にヴァーチャルに存在していた」

だけなのでしょうか。ここでも問題は主体の問題になります。


人間にとって、木が種子の中にヴァーチャルに存在するのは、

彫像と同様に、やはり類推によってのみ知ることが出来ます。

この限りではヴァーチャルな木は過去に属していることになります。


しかしながら、彫像のケースとは違うことがあります。

種子が木になるのは「プログラム」として、

種子自体の中に最初から仕込まれているのです。

これは認識主体の如何に関わらず変わりません。


プログラム・・・

ようやく、現代的なヴァーチャルの概念に

関わりがありそうな言葉が出て来ました。


つづきはまた次回<(__)>