先述した通り、中世スコラ哲学においては、
「ヴァーチャル」は「ポテンシャル」とほぼ同義であったため、
「彫像は、未加工の大理石の塊の中にヴァーチャルに存在する」
と言えたのでした。つまり、彫像になることが可能であるということです。
しかし、現代的なヴァーチャルの定義に従うとするならば、
この表現は成立しないようにも思えます。
一方、現代の工学者であるフィリップ・ケオーはこの表現を用います。
今日、なぜ、この表現が成り立つのか、という問いに答えるためには、
「ポテンシャル」と「ヴァーチャル」の差異を明らかにしなければなりません。
中世スコラ哲学においても、両者の間にはわずかな違いが存在しました。
「ポテンシャリティ」が潜在性を意味する受動的な言葉であったのに対し、
「ヴァーチャル」は力/最初の衝撃を意味するvirtusが語源であり、
ただ受動的なものではなく、アクチュアル化への方向性を強調されました。
「ヴァーチャル」として存在する彫像は、彫刻家の鏨を誘導するのです。
レヴィ(1956-)はドゥルーズ(1925-1995)を引用しながら、こう述べます。
ここで明らかになったことがあります。可能的なものにおいては、すでに全てが構成されているが、未発の状態にある。可能的なものは、その決定においてその本性においても、何も変化することなく実現される。それは幻のような潜行するリアルなものである。可能的なものは、まるでリアルなもののようである。存在が欠けているだけだからだ。可能的なものの実現は、語のまったき意味での、創造ではない。~中略~
ヴァーチャルなものはといえば、リアルなものではなくアクチュアルなものに対置される。安定し、すでに構成されている可能的なものとは違って、ヴァーチャルなものとは、問題提起的な複合体としてあり~中略~アクチュアル化は創造であり、力と目的性のダイナミックな布置をもとにしたある一つの形態の発明である。~中略~
リアルなものは可能的なものに似ている。ところが、アクチュアルなものはヴァーチャルなものには全く似ていない。アクチュアルなものはヴァーチャルなものに応えるのだ。『ヴァーチャルとは何か?』
「大理石の塊の中に彫像がヴァーチャルに存在する」とは、
全てが構成された彫像そのものがそこにあることを意味しません。
つまり、「ヴァーチャル」とは、ある種の「課題として存在する」のです。
こうして、ミケランジェロの「素材が命じるままに彫る」
という言葉も理解できます。それは、つまり、素材の中に
「ヴァーチャルに存在する(=課題として存在する)彫像」に応えたのです。
したがって、彼がプランを変更したことも、自然と了解され得ます。
これで、「種子の中に木がヴァーチャルに存在する」という言葉も
理解できるように思います。
木は種子の中で完全に構成されているわけではありません。
そうではなく、木という目的に向かう課題として、
木が種子の中にヴァーチャルに存在しているのです。
とは言え、実はまだ、彫像の問題は解決していないのです。
種子は木になることを求められる。
言い換えるならば、種子の課題は木になることである。
これは、自然に理解できます。
しかしながら、大理石の塊が彫像になることを求められる、
言い換えるならば、大理石の塊の課題は彫像になることであるとは、
一体全体、どういうことでしょうか。
続きはまた次回<(__)>