ようやく前期が終わりました。
震災の影響で、開始から夏まで休みなしだったので、
さすがに、少し疲れましたかね。
そんな中・・・ある授業のレポートを作成したのですが、
じつは、その授業は登録していない授業(聴講)でして、
教務部に提出しようとしたら、「受け取れません」だって(;一_一)
そういや、登録してないと提出資格ないんでした←うっかりさん(* ̄艸 ̄)
まあ、直接、先生に提出すれば(たとえ評価はもらえないとしても)
受け取ってもらえたとは思うんですが、お手を煩わすのも何なので
その場で引き取って、そのままお蔵入りさせることにしました。
忙しいと言いつつ・・・ムダなレポートを制作していたっていう・・・
この非効率的な生き方・・・まあ、ここで公開できるから良いかな♪
と、言うことで、ご興味があればご覧ください<(__)>
夏だというのに、なぜか春がテーマになっています(* ̄艸 ̄)
『言葉の意味が謎めいて見える時<春という言葉の考察>』
序章
<春>という言葉がある。広辞苑によれば、それは
①四季の最初の季節。日本・中国では立春から立夏の前日まで、陰暦では1月・2月・3月、気象学的には太陽暦の3月・4月・5月、天文学的には春分から夏至の前日までに当たる。春。万葉集[17]「み冬つぎ―は来れど」。「―が訪れる」
②正月。新春。
③勢いの盛んな時。得意の時。「わが世の―」
④青年期。思春期。
⑤色情。春情。「―をひさぐ」「―を売る」
の五つの意味がある。これらを見ていくことによって、言葉の意味が謎めいて見えるときを考えていく。
①.四季の最初の季節。
春。それは、立春~立夏の前日までと言うように暦上の厳密な定義によって用いられる場合がある。もちろん、暦は各文化でそれぞれ異なるし、ましてや立春、立夏などという概念は、太陰暦から来ているので、それを他言語、とくに太陽暦を用いている言語に訳すのは難しいかも知れない。しかし、日本でも明治五年以降はグレゴリオ暦を用いている。グレゴリオ暦はカトリックの暦とは言え、現在では、ほぼ世界共通の暦となっている。※1
したがって、グレゴリオ暦を利用することで、気象学的にみた春の定義である3、4、5月はもとより、立春、そして立夏を世界共通の定義の中に位置づけることができる。すなわち、現在の立春とは太陽黄経が315度のときで、グレゴリオ暦上は、だいたい2月4日ころである。※2グレゴリオ暦上で何月何日と決まっているわけではないが、太陽黄経が315度になる日と定義が厳密に決まっているので、毎年、立春の日は厳密にグレゴリオ暦上に書き表すことができる。あるいは、天文学では春分から夏至の前日までということになっている。この場合、太陽黄経0度から90度までの間である。これらの例では、地球と月の位置関係が、ある基準として機能している。
たとえば、一秒の定義が「1秒はセシウム原子133の基底状態の二つの超微細準位間の遷移によって発する光の振動周期の91億9263万1770倍の時間。(広辞苑第六版)」であるように、物理的な法則が言葉の意味を定義するケースである。すなわち、この定義における春とは、太陽黄経315度から太陽黄経45度までの間である。
ここで考えなければならないことは、ここでいう春という言葉の意味が、あとからやって来ているということである。現代では言葉の定義もユニバーサルに通用するものを求められる。社会という定義の広がりとともに、言葉の意味も変容していったのである。すなわち、元来の春は、かように厳密な定義を持つものではなかった。それでは、平安の昔に人々が使っていた季節上の春と、我々の使う春は同じ意味でありえるのだろうか。ここには、ある言葉に託された意味が、それを使う人、そしてその人が所属する社会/文化によって変わるということが示されている。
②.正月
そう考えるならば、新春という言葉が正月を意味することも理解できる。グレゴリオ暦においては真冬に当たる正月は、旧暦では現在の2月初頭、つまり立春のころに当たっているのだ。かつては、新春という言葉が、まさしく新しい春の始まりを意味していた。暦がグレゴリオ暦に切り替わると、新春という言葉は、その背景を失い、その意味を失う。しかし、それでも人々は新春という言葉を正月の別名として用い続けている。ここには、もはや、その真の意味を失い、グレゴリオ暦の1月1日を意味するようになってしまった言葉の例が見られる。同じ言葉を使っているように見えても、それを使用する人同士の間に社会背景や文化の差異がある場合、意味にズレが生じるのだ。
③わが世の春
また、春という単語は「我が世の春」などというように用いられた場合、人生の中で、何でも自分の思い通りになる時期、もっとも輝いて感じられる時期を表す。「我が世の春」における春は一種の隠喩であり、季節の春そのものを指すと言うよりは、「春のようなもの」という意味が、春という一語の中に含意されている。これは、ある単語の意味が、それの使われる文脈によって変化することを表している。
④青年期
春がかように肯定的な意味を持つのは、それが人間にとって体感的に心地よい季節であるのと同時に、それが新しい生命の誕生を感じさせるからだろう。冬は死を連想させる季節である。翻って、春は冬が終わったのちの再生を連想させる。ゆえに春は若いのだ。これは地球上に住む多くの者にとって、ある程度は共通の現象であろう。したがって、春が若さを表すのは、ある程度、各言語に共通のものである。
例「be in the spring life-青春まっただなかである」<wisdom英和辞典>
ここで登場する青春という言葉もまた、若さを表す言葉である。しかし、じつのところ、青春は季節の春のような再生の意味を含んでいない。季節においては冬のあとに死がくるものではない。また別の春がやってくる。青春とは人生の春であるが、しかし、巡り巡る春と違って、青春の春は二度と戻らないのだ。これは春のようであって春でない、まさしくそうであるとしか言いようのない特定の春である。季節の春を参照しながらも、別の意味をもそこに生じせしめる。言葉の意味は、それにくっつくものによって、それが参照しているもののある部分を肯定すると同時に、別のある部分を否定することすらある。この時、春という言葉の意味は一体なんだろうか。それは巡り巡るものか。それとも、ただ、去りゆくものか。
⑤.浪淘沙令
筆者の好きな詞に「浪淘沙令」という詞がある。※4もちろん、漢詩なので、日本語の春の話題に引っ張ってくるのはふさわしくないかも知れないが、そこは同じ漢字ということで、ご容赦いただきたい。この詞でもっとも有名な部分は次の箇所である。
流水落花春去也
天上人間
日本語に訳すならば、「水は流れ、花は落ち、春は去った。天上世界と人間世界ほども離れた彼方へ。」といったようなところか。この詞における春は巡り巡る春ではなく、特定のある春を指し、その春はもう二度と戻ってこないということが嘆かれている。しかし、この詞における春は、単なる過ぎ去る季節としての春を遥かに越えた意味を持っている。
これを書いたのは南唐(五代十国時代)の李煜という君主だが、彼は宋に破れ、虜囚の身となり、故郷を遙か離れた土地で、この詞を書いた。従って、この詞における春は季節の春を指すと同時に、李煜の故郷である南唐を指している。南唐はその名の通り、中国の南に位置し、温暖な気候の土地であった。南の地で生まれ育った李煜にとって、連行された北の地は余りにも寒く感じられたのであろう。そして、故郷を、その生活を、春そのものとして思い起こすのだ。
この詞においては、春という言葉によって、宮廷生活における季節上の春、南唐の地における季節上の春だけが参照されているわけではない。記憶の中で思い出はノスタルジーに昇華し、春夏秋冬、そのすべてが美しかったものとして思い起こさせる。したがって、この詞における春という言葉には、春夏秋冬すべてが含まれている。春という言葉の中に、本来であれば、それと相対する筈の言葉の意味すらも含まれているのだ。ゆえに、この春という言葉において参照されているのは、華やかだった宮廷生活そのもの、温暖だった南唐の地そのもの、そして、過ぎ去るものとしての春、暖かさの比喩としての春である。これらすべてを李煜は春という一語に込めている。これらの意味の内、どれひとつを欠いてもこの詞は成立しないだろう。言語は、春というひとつの言葉の中で、季節上の春という意味を持ちながら、それと同時に、本来ならば、それと相対する言葉の意味すら含むことが出来るのだ。
終章
これらのことからは、春というラベルが貼られたボトル(言葉)に入れられている筈の意味という内容物が、ひとつに収斂できるような純粋な水溶物ではなく、なにか、全く捉えどころのないものであるということが分かると思う。ある言葉が使われる時、それが意味するところは、文脈によって、さらにはそれが使われる背景によって、多種多様に変化する。かように、言葉の意味は捉えどころのないものである。言語コミュニケーションとは、そのように捉えどころのない言葉の意味を、話し手と聞き手の間で何とかすり合わせようという行為そのものなのかも知れない。
※1.現代ではイスラーム圏でもグレゴリオ暦が併用されていることが多く、イラン、アフガニスタンなど、紀元をヒジュラ暦元年に置く太陽暦であるヒジュラ太陽暦(主にイラン暦と呼称される)を併用する地域もある。<wikipedia-ヒジュラ暦>2011/7/25閲覧
※2.現在広まっている定気法では太陽黄経が315度のときで2月4日ごろ。<wikipedia-立春>2011/7/25閲覧
※3.温帯では春夏秋冬の4つに分けることが多く<wikipedia-季節>2011/7/25閲覧
※4李煜…浪淘沙令「簾外雨潺潺,春意闌珊。羅衾不耐五更寒。夢裏不知身是客,一餉貪歡。獨自莫憑欄,無限江山,別時容易見時難。流水落花春去也,天上人間。」簾外に雨は潺潺たり、春意闌珊たり。羅衾は耐えず 五更の寒さに、夢の裏に身は是れ客なるを知らず、一餉 歓びを貪りぬ。 独自 莫に欄に憑れば、限りなき江山、別れる時は容易く 見う時は難し。流水落花春去りぬ、天上と人間と。