袋叩きにされるのを承知で、あえて言います。
(前にもチラッと言ったことがあるけれど)
ボクは<原発推進派>です。
むしろ、「だった」と言うべきか・・・
今の状況で原発を「推進」するのは、
事実上不可能だと思うからです。
今、ぼくが原発自体をどう考えているかは、
また別の記事で書くこともあろうかと思います。
(今はまだ、それを書く気分にはなれません)
今回は、それを取り巻く周辺の話をしましょう。
『逆風の中で1<空気>』
先週の『朝まで生テレビ』で、こんな場面がありました。
震災前まで、マスメディアが原発を問題にしなかったことについて、
(なんでも単純明快で分かり易い構図で切りたがる)
ジャーナリスト上杉隆さんは
「電力会社がお金をばら撒いてマスメディアを黙らせた」
という趣旨の発言をされました。
それに対して、
より年配の長谷川幸洋さん(東京・中日新聞論説副主幹)は、
「ボクは(記者が)金で買われたとは思いません。
それより、むしろ<空気>のようなものだった。」
と実感を込めて述べられたのです。
空気・・・
この言葉、ボクも常々感じているものです。
たとえば、震災後のいま、この場で、
ぼくが「原発推進派である」
と言うことにさえ、ためらいを感じるのも、
ある種の空気によるものでしょう。
最近、気になっていることがあります。
それは、震災直後はよく見かけた方々。
いわゆる<原子力の専門家>の方々が、
最近では、とんとお見かけしなくなっていることです。
なぜでしょうか?
それはつまり、彼らが
「正しくなかった論を唱えていた」からでしょう。
「“大丈夫です”って言ってたクセに、
全然大丈夫じゃなかったじゃないか!」ってわけです。
そして、ここからが最も大事なのですが、
彼らはそのことによって、<人を騙した罪>に問われた挙句、
「村八分」にされようとしているのです↓
「安全説」山下教授に解任要求署名(J-CASTニュース6/14)
「これは、マズイなあ」って思います。
ボクは、忘れもしません。
震災後、数日経ったある日。
あるTV番組の「専門家の方々」が居並んだ席に、
訳の分かってない記者が、妙な速報を入れてきました。
それを聞いた専門家の方々が、一斉に青ざめたのです。
「それが本当だとしたら、大変、深刻な事態ですね・・・」
(それは多分、数値の読み間違いによる誤報だったんだけど、
今となっては、何が誤報だか何だか分からないな・・・)
彼らは、たしかに現状(7/3現在)で分かっていることを、
正確に言い当てていたわけではありません。
しかしながら、別に「騙して」いたわけではないのです。
冷静になって思い出してみれば、分かること・・・
そもそも、あの大混乱の中で、
「正確な情報」を一体どれだけ共有できていたというのでしょうか。
何が正しくて何が正しくないか、どれだけ見極められたでしょうか。
(当初から深刻な事態だと言っていた人も含めて、
誰もが「可能性」という言葉を使っていたのです)
そもそも、科学に限らず学問というものは、
議論によって成り立っています。
故に、その場、その場で、見解の相違というのは常にあるわけです。
そして、科学の場合(検証可能性があるので)
特にその傾向が強いのですが、
「正しかった(ように見える)論と正しくなかった(ように見える)論」が
結果として、ハッキリと区別されていきます。
例:ニュートン→アインシュタイン
だったら、
「“危険だ!”と言っていた“人”が正しいんだから、
彼らの見解“だけ”聞いていれば良いじゃないか。」
そういう話になりがちです。
しかし、それこそもっとも危惧すべきことなのです。
「正しかった、正しくなかった」というのは、
そもそも主観的な立地に立った判断ですが、
それでも、社会的な価値観の基準に照らせば、
(それもまあ、絶対的な基準ではないのですが)
そういう判断はありえるでしょう。
しかし、ある論が正しくなかったからと言って
その論者を「村八分にしてしまう」のは大きな間違いなのです。
なぜならば、そのようなことをしてしまうのならば、
“誰も”“何も”言えなくなってしまうからです。
そうして、すべてが<空気>になってしまう・・・
たとえば、共産主義は人類史上、もっとも壮大な失敗のひとつです。
それによって生じた犠牲は、まったくもって、信じられないほどです。
つまり、「もっとも正しくなかった論」のひとつだと言えるでしょう。
とは言え、それが明らかになった今でもなお、
「赤狩り」を肯定的に捉える人がどれだけいるでしょうか?
(注:ナチズムの場合は少し話が違ってきます。
ナチはユダヤ民族根絶というテーゼを掲げていたわけですから、
これは明らかに、全人類が共有すべき理念とは相容れないですし、
思想の根底に一部の人々に対する害意が存在しています。
一方、共産主義の場合は「結果はどうであったにせよ」
少なくとも「全人類」を幸福にしようとした理念であったわけです。
これは原発推進派についても同じことが言えます。彼ら/僕らは
誰かを不幸にするために原発を推進したいわけじゃないのです。)
しかし、ぼくらは、<空気>によって、
「赤狩り」と同じような行動を肯定してしまうのです。
そして、誰も何も言えなくなって、議論すら出来なくなる。
空気・・・
原発問題も、そうして、封殺されてきました。
「最初は喧々諤々の議論をしているけど、
次第に反対派の人が居なくなって、最終的には1人だけになる」
『朝まで生テレビ』より
“何かを”“誰かの”せいにするのはとても簡単なことです。
でも、空気を作り出しているのは、一体、誰でしょうか。
それはもちろん、ボクら1人1人です。
ですからボクは、非難の雨にさらされるのを承知で
<原発推進派>であることを、ここに明言することにしました。
それは、隠れもない事実なのですから。