閑話休題5(逆風の中で1) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

 
袋叩きにされるのを承知で、あえて言います。

(前にもチラッと言ったことがあるけれど)

ボクは<原発推進派>です。


むしろ、「だった」と言うべきか・・・

今の状況で原発を「推進」するのは、

事実上不可能だと思うからです。


今、ぼくが原発自体をどう考えているかは、

また別の記事で書くこともあろうかと思います。

(今はまだ、それを書く気分にはなれません)


今回は、それを取り巻く周辺の話をしましょう。




『逆風の中で1<空気>』


先週の『朝まで生テレビ』で、こんな場面がありました。


震災前まで、マスメディアが原発を問題にしなかったことについて、

(なんでも単純明快で分かり易い構図で切りたがる)

ジャーナリスト上杉隆さんは

「電力会社がお金をばら撒いてマスメディアを黙らせた」

という趣旨の発言をされました。


それに対して、

より年配の長谷川幸洋さん(東京・中日新聞論説副主幹)は、

「ボクは(記者が)金で買われたとは思いません。

 それより、むしろ<空気>のようなものだった。」

と実感を込めて述べられたのです。


空気・・・

この言葉、ボクも常々感じているものです。


たとえば、震災後のいま、この場で、

ぼくが「原発推進派である」

と言うことにさえ、ためらいを感じるのも、

ある種の空気によるものでしょう。


最近、気になっていることがあります。

それは、震災直後はよく見かけた方々。

いわゆる<原子力の専門家>の方々が、

最近では、とんとお見かけしなくなっていることです。


なぜでしょうか?


それはつまり、彼らが

「正しくなかった論を唱えていた」からでしょう。

「“大丈夫です”って言ってたクセに、

 全然大丈夫じゃなかったじゃないか!」ってわけです。


そして、ここからが最も大事なのですが、

彼らはそのことによって、<人を騙した罪>に問われた挙句、

「村八分」にされようとしているのです↓

「安全説」山下教授に解任要求署名(J-CASTニュース6/14)


「これは、マズイなあ」って思います。


ボクは、忘れもしません。

震災後、数日経ったある日。

あるTV番組の「専門家の方々」が居並んだ席に、

訳の分かってない記者が、妙な速報を入れてきました。


それを聞いた専門家の方々が、一斉に青ざめたのです。

「それが本当だとしたら、大変、深刻な事態ですね・・・」

(それは多分、数値の読み間違いによる誤報だったんだけど、

 今となっては、何が誤報だか何だか分からないな・・・)


彼らは、たしかに現状(7/3現在)で分かっていることを、

正確に言い当てていたわけではありません。

しかしながら、別に「騙して」いたわけではないのです。


冷静になって思い出してみれば、分かること・・・

そもそも、あの大混乱の中で、

「正確な情報」を一体どれだけ共有できていたというのでしょうか。

何が正しくて何が正しくないか、どれだけ見極められたでしょうか。

(当初から深刻な事態だと言っていた人も含めて、

 誰もが「可能性」という言葉を使っていたのです)


そもそも、科学に限らず学問というものは、

議論によって成り立っています。

故に、その場、その場で、見解の相違というのは常にあるわけです。


そして、科学の場合(検証可能性があるので)

特にその傾向が強いのですが、

「正しかった(ように見える)論と正しくなかった(ように見える)論」が

結果として、ハッキリと区別されていきます。

例:ニュートン→アインシュタイン


だったら、

「“危険だ!”と言っていた“人”が正しいんだから、

 彼らの見解“だけ”聞いていれば良いじゃないか。」

そういう話になりがちです。


しかし、それこそもっとも危惧すべきことなのです。


「正しかった、正しくなかった」というのは、

そもそも主観的な立地に立った判断ですが、

それでも、社会的な価値観の基準に照らせば、

(それもまあ、絶対的な基準ではないのですが)

そういう判断はありえるでしょう。


しかし、ある論が正しくなかったからと言って

その論者を「村八分にしてしまう」のは大きな間違いなのです。

なぜならば、そのようなことをしてしまうのならば、

“誰も”“何も”言えなくなってしまうからです。


そうして、すべてが<空気>になってしまう・・・


たとえば、共産主義は人類史上、もっとも壮大な失敗のひとつです。

それによって生じた犠牲は、まったくもって、信じられないほどです。

つまり、「もっとも正しくなかった論」のひとつだと言えるでしょう。

とは言え、それが明らかになった今でもなお、

「赤狩り」を肯定的に捉える人がどれだけいるでしょうか?


(注:ナチズムの場合は少し話が違ってきます。
 
 ナチはユダヤ民族根絶というテーゼを掲げていたわけですから、

 これは明らかに、全人類が共有すべき理念とは相容れないですし、

 思想の根底に一部の人々に対する害意が存在しています。

 一方、共産主義の場合は「結果はどうであったにせよ」

 少なくとも「全人類」を幸福にしようとした理念であったわけです。

 これは原発推進派についても同じことが言えます。彼ら/僕らは

 誰かを不幸にするために原発を推進したいわけじゃないのです。)


しかし、ぼくらは、<空気>によって、

「赤狩り」と同じような行動を肯定してしまうのです。

そして、誰も何も言えなくなって、議論すら出来なくなる。


空気・・・


原発問題も、そうして、封殺されてきました。

「最初は喧々諤々の議論をしているけど、

 次第に反対派の人が居なくなって、最終的には1人だけになる」

『朝まで生テレビ』より


“何かを”“誰かの”せいにするのはとても簡単なことです。

でも、空気を作り出しているのは、一体、誰でしょうか。


それはもちろん、ボクら1人1人です。


ですからボクは、非難の雨にさらされるのを承知で

<原発推進派>であることを、ここに明言することにしました。

それは、隠れもない事実なのですから。