『漠然とした話』
昨日まで国立新美術館で開催していた←最終日に行く人(笑)
「アーティストファイル2011」
なかでも松江泰治さんの作品群
(街や風景の俯瞰写真のパネルと、
一見、静止しているように見えるけど、
広大な景色の中で一部が動いているビデオ映像)
には考えさせられることがありました。
それは、
「銀塩写真(アナログ写真)は
基本的に動かないものである。」
って、当たり前のこと?(* ̄艸 ̄)
銀塩写真には基本的に表面しかない。
むしろ、表面がすべてであると言えます。
しかし、デジタルはそうではありません。
デジタル写真においては、常に内部が問題になります。
それは、絵画と詩の違いに似ています(この部分、要検討)
言語が静的な対象も動的な対象も描写できるのと同様に、
デジタルにおいては、動画と静止画の区別は本質的にはありません。
実際、デジタルカメラはフィルムカメラよりは、
(構造的に)むしろビデオカメラに似ているのです。
(デジタルカメラのモニターに映る映像はビデオ映像そのものであり、
デジカメは、いわば、その映像を「抜き取って」写真にしています。
それゆえに、デジカメには動画を記録する機能もついているのです。)
写真という定義の縛りによって動きを止めているだけとも言えるでしょう。
アナログビデオを一時停止しても、それを写真と呼ぶ人はいません。
それは、デジタルビデオでも同じなのでしょうか。
空間と時間から抽出された光。
ここにおいて、問題は写真そのものの定義に帰ります。
それは何から生まれたのか。
それは何者なのか。
静止画、動画、フィルム、CCD、現像、印刷、プリント、モニター・・・
現代において、写真を語るためには、
いくつかの定義域を用いる必要があるのかも知れません。
(その領域の重なりを見ればそれを何と呼ぶかが決まるのだろうか?)
似ているものたち・・・
動画と静止画、光を捉える試みの歴史・・・
銀塩写真とデジカメの中間、ぼくはここに、
ビデオプリンターを引き入れるべきなのかも知れません。
「フィルムカメラ(映画)ーフィルムカメラ(銀塩写真)」
「ビデオカメラ(ビデオ映像)ービデオプリンター(プリント写真)」
「デジタルビデオカメラ(デジタルビデオ映像)ーデジタルカメラ(デジタル写真)」
ビデオカメラとデジタルビデオカメラは
基本的に「撮像部」は同じ構造をしています。
違うのは「記録の方式」だけなのです。
つまり、この場合、
デジタルというのは、記録の形態を指します。
映画、ビデオ映像、デジタルビデオ映像、
それらはいずれも、スクリーンやモニターに投影された映像を指します。
それらは通常「物」とは見なされません。
(それは「動く」という特性にもよるのかも知れない)
一方、銀塩写真、ビデオプリンターでプリントアウトされた写真・・・
それらは本質的に現像/印刷された「物」です。
つまるところ、これまで、
写真とは写真という「物」を指していたのです。
しかし、デジタル時代におけるデジタル写真の主流は
プリントアウトされた物(写真)から、
モニター上の静止画像へと移行しつつあります。
これは、デジタル写真の特性を考えると本質的なことのように思えます。
(デジタルにおいては、常に表面より内部が問題になります。
しかし、プリントされてしまうと内部が消失する=デジタル性の消失)
物としての写真から、画像としての写真へ・・・
なにか、この辺に鍵が潜んでいそうな気がする←漠然(* ̄艸 ̄)