今日は、なんだか言いたいことの半分も言えなかった。
そもそも、ぼくはパロール(話し言葉)で議論できる人間じゃないんだと思う。
『卒論メモ2』
デジタルカメラで撮った画像を
デジタルフォトフレームに送って再生するということ。
1.デジタルカメラは受けた光をデジタル情報に変換し、
2.それを(メモリーに保存したのち)デジタルフォトフレームに送ります。
3.それを読み込んだデジタルフォトフレームは、
そのデジタル情報を光に再変換し、画面に表示します。
つまり、デジタルカメラは光をデジタル情報にコード化するデバイスであり、
一方、デジタルフォトフレームはデコード(解読)するデバイスだと考えられます。
これは、こういう事象に似ています
ここに花があるとします。
(x)←これを花だと思って下さい。
1.ぼくがこの花を見て、これをコードに変換します。

Ax Az By Cx Cz
(Ax1 Ay0 Az1 Bx0 By1 Bz0 Cx1 Cy0 Cz1)
2.つぎに、ぼくがこの文字列を読んでみなさんに伝えます。
3.すると、みなさんはこの文字列を解読して花を描けるのです。
もちろん、みなさんの中にもこのマス目が共有されていることが前提です。
このマス目がつまりファイル形式に当たり、
(同じ文字列でも、ファイル形式が異なれば意味が違ってしまうでしょう)
この一連の文字列、これがデジタル情報に当たります。
その言葉の配列こそがデジタルな部分なのです。
花を見てコードに変換したぼくがデジタルカメラだとすると、
絵を描いたみなさんはつまり、デジタルフォトフレームだと言うことになります。
(解読した先は常にアナログです。
なぜならば、その先にあるぼくらの世界がアナログ的だからです。)
注:これはマクロなレベルの話、量子のレベルになると区別は曖昧になります。
補足:CDやDVDの映像・音声データはデジタル信号で記録されているが、これは0と1の数字の羅列でしかなく、そのままでは人間の視覚や聴覚では理解できない。最終的にはテレビ画面に映像を写したり、スピーカーから音を出すわけだがこれはデジタル信号をアナログ信号に変換しているため可能なのだ。(All About)
つまり、記号(コード)化するということは、
ふるまいが言語に似てくるということを意味します。
デジタルを言語のように見てみることで、
デジタルのふるまいが理解できるのではないでしょうか。
ほんとはココから論を展開したかったんだけどね・・・
先生「いや、言語はそもそもデジタルなものでしょ」
なんだか、そこから思考停止に陥ってしまった。
う~ん、たしかにそうとも言えるんだけど、
ぼくが言わんとしたことは、つまり、
「デジタルという事象を、言語という事象と同じように見てみる
(つまり、言語学をデジタルに応用する)ことで
現在、起こっているデジタルの事象を理解できるのではないだろうか」
ってことだったから、何だか少し意図が伝わらなかったような気が・・・
まあ、いいや。
それ以前に、正直、今年はモチベーションを維持することが、とても困難です。
※一歩、歩くたびに涙が零れそうな気がするよ。
おまけ(言えなかったいくつかのこと)
『言語とデジタルに関するetc.』
A1.言語体系ということは、その中で物語が創れる⇒CG
A2.原則として、言語体系の中では物語と実話の区別はない。
⇒デジタル写真自体の証拠能力の喪失。
A3.それを区別するためには現実世界を参照する必要がある。
⇒デジタル写真自体にタグ(現実世界に属するモノ)を付ける必要がある
B1.言語空間は時間にも(三次元)空間にも属さない。
⇒(文字通り)自由に歩き回れる(瞬間移動も可能)
B2.デジタル空間を歩き回るということは言語空間を歩き回ることに似ている。
⇒google earth
C1.言語/デジタル情報は配列に属す。
⇒それ自体は身体を持たない
C2.身体を持たないがゆえに、それは各々に所有されうる=共有
⇒デジタル時代の原理は所有ではなく共有
C3.情報の共有=知識化
⇒デジタル時代の革命へ(チュニジア/エジプト)
D1.間違ったデータを入れても読み込もうとする→しかし、意味をなさない
D2.有意味な問い=ソフトウェアが解読できる問い
D3.つまり、決まった形式(言語体系/ファイル形式)の中でのみ機能する
E1.デジタル空間においてはテキスト/画像/動画/音声は同じ領域に存する
⇒すべてコード化されているため
E2.テキストに画像や動画を重ね、さらに音声を重ねることが可能
⇒ぼくらが普段PC上で目撃していること
みんな、ちゃんと芸術/美学に寄せて考えているのに、
なんだか僕ひとりだけ、全然ちがうことをしているみたいな気がする。