レポート公開第三弾は、読書レポートです。
取り上げたのは、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』
≪ネヴァーエンディングストーリー≫として映画化もされました。
完全にネタばれしていますので、ご注意ください<(__)>
ミヒャエル・エンデ
『はてしない物語』
ファンタージエンについての考察
ファンタージエン(Phantasien)、直訳すれば想像、あるいは空想の世界だろうか。このファンタージエンを舞台にしたミヒャエル・エンデ(1925-1992)の小説『はてしない物語』は、現実世界の鏡に映った文字から始まる。それは、現実世界とは異なる鏡の中の世界への旅立ちを予感させる。そして、鏡の中の反転した文字は、その鏡の中の世界が、言語領域の外にあることを示唆しているだろう。『記号の事典』にはさまざまな記号論の共通項として、次のような記述がある。
記号の発信者と受信者との間で事前に了解済みのコードが存在し、このコードを介して両者のコミュニケーションが行われる。1
典型的記号である言語によるコミュニケーションは、既成概念の中でのみ通用する。言語は言ってみれば、閉じられた体系なのだ。その一方、物語の冒頭で主人公のバスチアンは次のように述べている。
自分で話を考えだしたり、これまでになかった名前やことばをつくってみたり、そういうことだけど。 2
このような趣味を持つバスチアン少年は学校で仲間外れにされている。これまでになかった名前や言葉は既成概念の中では通用しない。言ってみれば、既成概念の枠の中でもがき苦しんでいるのがバスチアンという少年なのである。このバスチアンという少年は、私に、ドイツ文学のある登場人物を思い起こさせる。ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン。ドイツの文学者ノヴァーリス(1772-1801)の未完小説『青い花』に登場する流浪の詩人である。
言葉というものは、ほんとうに符号と音声からなるひとつの小世界なのですね。(中略)人間はこの小世界を支配するようになると、大世界をも支配して、そこで自由に自己表明ができることを望みます。この世の外に存在するものを、この世に示現させようとすること、もともと人間の根源的な衝動であるものをなしうるという悦びにこそ、詩の起源があるのですね。 3
ハインリヒのこの言明は、これから先『はてしない物語』を読み解いていく上で、非常に重要になる。バスチアン少年も、言ってみれば一個の詩人なのだ。物語中の「はてしない物語」という一冊の本はバスチアンにとって、「これこそ夢にまで見たもの」 4であった。見果てぬ青い花を求めて旅に出たハインリヒと、ファンタージエンへと旅立つバスチアンの姿は、こうして重なっていく。
バスチアンは本を盗み、学校をさぼることで既成概念の枠を飛び越えていく。「こうなった今、家へ帰ることは、どう考えても、もうできない」5 「遅刻してきたものにとって、学校の周囲は死に絶えた町」 6。バスチアンがファンタージエンへと旅立つ前、彼を取り巻く現実世界は無の世界である。彼が本を読み始めるのは学校の屋根裏部屋。そこには忘れ去られた各種のものが置かれている。これは、忘れ去られたものが思い出されることとファンタージエンが取り戻されるということとに重なっているように思えるが、ここでは置いておこう。バスチアンは「はてしない物語」を読むことで想像の世界、ファンタージエンへと旅立っていく。彼が本を読み始める時、学校では国語の授業が始まる時間である。物語の冒頭が反転した文字から始まることを考えるのならば、ここに、想像の世界と既成概念の世界という対比の構図を見ることも出来るだろう。
バスチアンが読む「はてしない物語」はファンタージエンの各地に迫る危機、押し迫る虚無についての描写で始まる。バスチアンを取り巻く現実世界の虚無がファンタージエンの世界にも押し迫っているのだ。そしてどうやら、この危機はファンタージエンの女王「幼ごころの君」が病気にかかっていることと関係があるらしい。幼ごころが弱り、想像の世界に虚無が迫ってくる。さきほどの対比の構図を思い起こすならば想像の世界が子どもによって、既成概念の世界が大人によって支配されていると考えられるだろう。既成概念の世界では、大人の考え方が子どもへと伝えられていく。学校とは、まさしく既成概念のうちに子どもを取り込むシステムなのだ。しかし、それは昔から変わらなかった筈だ。なぜ、幼ごころの君が病にかかり、ファンタージエンに虚無が迫っているのだろうか。これは、幼ごころが子どもにだけ宿るわけではないことに由来しているだろう。つまり、このことは大人の世界、すなわち既成概念の世界から幼ごころが消えていっているということを示唆するのだ。そして、大人の世界から幼ごころが消えていったということが、子どもたちの考え方にも直結する。
ファンタージエンに虚無が広がれば広がるほど、それだけ人間世界に虚偽が氾濫し、そしてほかならぬそのせいで、せめて一人でも人の子がきてくれはしないかという望みが、刻一刻うすらいでゆくのだ。 7
現代は圧倒的な科学優位の時代だ。想像の世界が虚偽の世界へと変換されていくことが科学的な世界観なのである。科学優位の時代に生まれたバスチアン少年もまた、想像の世界を信じられなくなっている。いつしか、想像の世界は現実世界のあらゆる片隅からその姿を消していき、その代わりに虚偽が氾濫していく。「はてしない物語」の内容にはバスチアンの想像が影響するが、自身の想像が物語に影響を与えるたび、バスチアンは「うそだ」とつぶやき、あるときはそう叫ぶ。想像がうそになる。これこそが想像の世界が虚偽の世界へと変換されるという科学的な思考を端的に表している。科学的に考えると、想像の世界が現実になりうるはずがないのだ。しかし、本を読み進めていくことで、言い換えれば、「はてしない物語」のアトレーユという登場人物と一緒に旅をすることで、バスチアンは徐々に物語(ファンタージエンの世界)を信じ始めるようになる。
想像の世界を信じたものだけが、その中に入っていける。最終的にファンタージエンを信じたバスチアンは、幼ごころの君に「月の子」(Monde kind)という名を付けることでファンタージエンを救う。月というのはなかなか象徴的な言葉だと私は思う。かつて、月は手が届かないものの象徴だった。たとえば、フランスの文学者アルベール・カミュ(1913-1960)の戯曲『カリギュラ』では、月は手が届かないものの象徴として用いられている。『カリギュラ』の初演は1945年。カミュの死は1960年である。その9年後、人類は月へと到達した。エンデが『はてしない物語』を書いたのは、さらに10年後。月は(想像の世界が崩壊したのではなく)想像の世界が現実になったということの象徴なのだ。
注意して置きたいのは、当初は観測者であったバスチアンは、この時点では既に物語の登場人物になっているということである。したがって、『はてしない物語』の前半はバスチアンが所属していた現実世界(既成概念)とファンタージエン(想像の世界)との対比に重点があったが、後半はファンタージエンに入り込んだバスチアン個人の内面に重点がシフトしていくと言っても良いだろう。
バスチアンは物語の中に入り込み、新しいファンタージエンを作るという使命を有することになる。ありとあらゆるものに名前が付けられることで新しいファンタージエンが創造されていく。バスチアンは自らの望みに従ってファンタージエンを創造していくが、望みというのは既成概念を塗り替えていく。現実世界で太っちょの臆病な少年だったバスチアンは、ファンタージエンの世界では勇者になり、英雄になり、王になる。また、ある生き物には別の生き方を与える。想像の世界では何にでもなれるし、何でもできる。しかし、そこで何かになったからと言って、そのことで尊敬されるわけではない。彼がファンタージエンにもたらしたものは善きものばかりではなかったが、それを想像したこと、想像力自体が敬意を払われる。望むことがファンタージエンの創世に関わっていくのだ。
一方、望みを叶えることで、バスチアンの現実世界での記憶はなくなっていく。現実世界での記憶がなくなったバスチアンは、徐々に望みを失っていく。望みは現実世界の言わば不完全な肉体性に関わっているというエンデのこの考え方は面白い。想像力を生む自由な精神も、肉体性を失っては望みを得ることはできない。言ってみれば、現実世界とファンタージエンは表裏一体の関係にある。ここにおいて、現実世界に戻るということが重要な焦点として立ち現われてくる。現実世界に戻るという望みこそが、現実世界とファンタージエンとを繋ぐのだ。
物語の終盤、ファンタージエンでバスチアンは母親と出会う。現実世界でのバスチアンは既に母親を亡くしているのだが、ここで、興味深いことが起こる。
そうそう、わたしの名前をまだいってなかったわね。わたしは、アイゥオーラおばさまっていうの。 8
つまり、彼女は、ファンタージエンで初めて自分の名前をバスチアンに名乗った人物なのである。ファンタージエンでは、名付けが創世に関わっている。バスチアンが自分の自由に想像したファンタージエンにおいて、ここで初めて他者との出会いが描かれていると言えるだろう。この場所は「変わる家」だと書かれているが、むしろ、ここは想像の世界であるファンタージエンの中でも、ひとつの独立した世界だと考えた方が良いのかも知れない。あるいは、想像の世界であらゆる望みを叶えながら、自らの根源へと向かって進んでいくバスチアンが見つけた、ある種の遺伝的な繋がり、自らの血に流れる繋がりのようなものなのかも知れない。そう考えるのならば、初めての他者が母親であるというのは、非常に意味深長である。あらゆる望みが叶ったバスチアンは、母親の下で、最後の望み、愛することを手に入れる。この愛することこそが、現実世界に戻るということに直接に結び付くのだ。この最後の望みは、母親という最初の他者によってもたらされた望みなのである。
現実世界に戻ったバスチアンは、真っ先に愛する父親の元へと向かう。想像力を生む自由な精神と、不完全な肉体性と、他者の存在、それら全てを認めたバスチアンにとって、世界はすでに無ではなかった。望むことが何でも叶うファンタージエンの世界から戻ってきたことによって、彼の苦悩は浄化されているのだ。こうして彼は、再び現実世界の中で歩みを進み始める。そして、バスチアンのようにファンタージエンに行って帰ってきたものたちが、ファンタージエンの存在を広めることで、個々それぞれが抱えるファンタージエンの世界(想像の世界)が続いていくことを示唆して物語は終わる。
科学や既成概念だけではなく、想像や希望だけでもなく、なにか、その両面を行き来することで人は歩みを進めることができる。そして、そのためには他者の介在が必要になってくる。一度、既成概念の外に出て、再びそこに戻って来た時、人は自らが歩むべき道をはっきりと認識できる。『はてしない物語』は、そのようにも理解できるのではないだろうか。
1.『記号の事典』第二版、三省堂、1991年。
2.ミヒャエル・エンデ『はてしない物語(上)』上田真而子/佐藤真理子訳、岩波書店、1997年、11頁。
3.ノヴァーリス『青い花』青山隆夫訳、岩波書店、1989年、188頁。
4.『はてしない物語(上)』15頁。
5.同上、17頁。
6.同上、18頁。
7.同上、240-241頁。
8.ミヒャエル・エンデ『はてしない物語(下)』上田真而子/佐藤真理子訳、岩波書店、1997年、326頁。
改訂:2014/12/10