ヨハネス・グンプ
Johannes Gumpp
≪自画像≫
1646
Johannes Gumpp
≪自画像≫
1646

この絵を見た哲学者J・L・ナンシーはこう述べた。
「そこにあるのはモデルというよりもむしろ、いわばある理念なのであり、しかもこの理念とはほかならぬ絵画それ自体の理念である。」 ジャン=リュック・ナンシー著/岡田温司・長友文史 訳『肖像の眼差し』人文書院、2004、p35
『ルサンブランス(似ていること) 』
この絵画の中において、「鏡の中の肖像」は、「キャンバスの上の肖像」に目を向けている。ということは、すなわち、「我々に背を向けている肖像(画家)」が「キャンバスの上の肖像」を見ていることを示唆する。対照的に、「キャンバスの上の肖像」の眼差しは画面の外、すなわち我々自身に投げ掛けられている。この眼差しは、あることを強く主張する。すなわち、この「二つの類似した肖像」は、「我々に背を向けている肖像(画家)」にこそ似ているのだと。肖像画が肖像画であることを主張するのは、まさに「それ(描かれたもの)」が「対象」に似ていることを主張する時に他ならない。
ここには描くという行為に寄せられた一つの理念がある。鏡の中からキャンバスへ、キャンバスから画面の外へと投げかけられた眼差しは、この絵の中の、「我々に背を向けている人物(画家)」が、この肖像画を描いた「画家自身(すなわちグンプ自身)」であることをも同時に主張するだろう。いや、むしろ、黙して語らない背中こそが、そして、絵筆を握った手こそが、何よりもそれを(画家が画家である自己同一性を)雄弁に主張するのだ。しかし、それを証明する術は我々には何一つ与えられていない。「絵画(という媒体)それ自体」は、「絵画に描かれたもの」が「対象それ自体」であることを示す証を何も持たないからだ(=絵画の中に対象それ自体は存在しない)。ヨハネス・グンプの≪自画像≫。ここで起きているのは、似ていることを主張する「絵画の内容それ自体」が、似ていることの客観的証明を与えない「絵画という媒体それ自体」に戦いを挑むという事態である。
記号論の祖C・S・パースは肖像画を類似による記号(イコン)に分類した。しかし、対象を、その当の肖像によってのみしか知り得ない場合、その肖像が「何」に似ているのか、我々には判断がつかない。すると、ここに描かれているのは何よりも「似ていること」(という概念)それ自体に他ならないのだ。J・L・ナンシーが「肖像画は肖像画それ自体に似ているのだ」と言ったように。
注:引用箇所以外はJ・L・ナンシーの考えではないのでご注意ください<(__)>
注2:↑の自画像は新宿の東郷青児美術館で展示されてました・・・昨日まで(笑)
<(__)>