
≪借りぐらしのアリエッティ≫について
注:ネタバレはしませんが、
ご覧になっていない方には意味不明かも知れません。
僕はあの映画を気に入っています。
しかし、批判も多く存在します。
その多くは理に適っているのかも知れませんし、
確かに、あの映画は完璧な映画ではありません。
しかし、どうしても承服できない批判もあります。
その批判とは、
「借りると言っていながら実際は返さないじゃないか」
というものです。
この批判に対する僕の見解を書いておきます。
(当然ながら、この見解はジブリさんとは何の関係もありません)
まず、言葉の意味。
前提として、彼らの種族は人間とは会話しません。(禁止されている)
会話しない。
→つまり、彼らの種族が人間から「借りる」のは約束/契約ではありません。
(従って、契約違反にはなりえない)
彼らは彼らの行為に「カリ/借り/狩り」という「名」を付けたのであって、
それは彼らの文化(の価値観)に属する問題です。
(たとえば、同じ「死」という出来事であっても
「逝去/成仏/往生/昇天/辞世/他界/永眠」
というように、文化によって多くの捉え方があるように。)
とは言え、
僕らの価値観から判断するならば、
彼らの「カリ」は(借りるというより)盗みに近い。
それは事実です。
(「借り」が「狩り」にかかっていることから
これは制作者も認識していると推測できます。)
が、彼らは人間ではありません。
(人間社会の外縁で暮らしている。)
もともと、「人間のもの」というのは人間社会の間でしか通用しないルールです。
別の種族には人間の倫理観ならびに刑法を適用することはできません。
そして、たとえどんな種族であろうとも生き延びる権利があります。
(それが「寄生虫」であろうが「害虫」であろうが)
人間は生態系の支配者です。
支配者である人間には、彼らの生存に対する義務があります。
(『種の保存法』の存在は端的にそのことを証明します)
現実を見てみれば、
(この生態系にあって)人間は一方的な搾取者です。
「人間が他の種族から搾取するのは平気だが、
他の種族が人間から盗むのは許せない。」
(お前のものはオレのもの、オレのものはオレのものbyジャイアン)
そういう余りにも人間本位の考え方。
この映画には、
そういう人間本位の考え方に対する批判的な視点があります。
人間は他の種族の命をもらって、
自ら/子孫を養い繁殖しています。
これは「搾取/被搾取」の関係です。
(注:「農耕」や「畜産」は既に「人間系」に組み込まれているので含みません)
しかし、ここに
人間が搾取した資源を
生態系に「返す」という発想が加われば、
これは「貸し/借り」の関係になります。
かつては人身御供という考え方があったことを僕は思い起こします。
これは、非常に非論理的なものでしたが、
完結(閉鎖)した世界を保つには、
なんらかの「貸し/借り」(還流)のシステムが必要になります。
一方的にモノが流れるシステム(搾取システム)では
完結した世界は保持できません。(例:メソポタミア)
近代社会において
人類が一方的にモノが流れるシステムを保持しえたのは、
科学技術の発達により、搾取可能な世界が広がり続けたからです。
(つまり、非完結型の世界だったということ)
しかし、もはや地球には
これ以上搾取できる余地は(文字通り)ありません。
(再び、完結型の世界に変わったということ)
だからこそ、現代は発想の転換を求められています。
近代社会の培ってきた価値観をひっくり返す岐路に僕らは立たされています。
それは生贄を捧げよということではありません。
あるいは戦争で人間を減らせということでもありません。
(少なくとも余剰資源を)(あるいは加工し)
生態系に僅かでも「返す」という発想が要請されています。
この映画は、そういう発想を要請しているように思えます。
つまり、「借りる」という言葉は、
(彼らの種族と人間の種族の一対一の関係ではなく)
もっと広い範囲から考えて適用されていると理解するべきでしょう。
従って、
「借りると言って盗んでいるじゃないか」という議論は、
制作者の意図を汲みきれなかったために生じてくると考えられます。
その点で、この映画には(脚本の上でも演出の上でも)至らなかった部分があります。
しかし、それはテクニカルな問題に過ぎません。
注:(原作『The Borrowers』は読んでいないので、)
あくまでも、映画からの判断であることをお断りして置きます。