
注:便宜上、カタカナの「キ」は現物の「木」を意味すると思って下さい。
一般に、「tree(文字)」が「キ(そのもの)」であることの蓋然性は無いと言われます。それ(「tree」が「キ」を現すこと)は経験によって初めて知りうることです。この事実は、長らく言語学の基礎となってきました。それは、(表音文字である)ローマ字を基本にする欧米社会の影響です。
しかし、(表意文字である)漢字文化圏に住む僕らは、言語のもう一つの側面を知っています。つまり、「木」は先験的に「キ」を現す(「キ」の形から「木」という文字が出来た)のであり、それゆえに、この文字を知らないものが見ても、「木」という字が何を現すのかを知りうる可能性があります。
つまり、「木」という文字は、それ自体リプレゼンテーション(=再現/表象)されたイメージ、一つの絵であるということが出来ます。それはモンドリアンの描く絵のように、極度に抽象化された絵です。
一方で写真は「透明な媒体」であると言われます。それ(写真)が現すのは常に(そこにある)個物のみであり、普遍的な物ではありません。つまり、「キ」ならば、写真は写真に写っている「キ」のみをリプレゼンテーションします。それ(写真)が地球上の全ての「キ」をリプレゼンテーションすることはありえません。(地球上にある全ての「木」を一枚の写真に写せば普遍的な「キ」をリプリゼンテーション出来るという考えもあるかも知れませんが、普遍的な「キ」には、現在、過去、未来、全ての「キ」が含まれるので、一枚の写真が、それを現すことは出来ません。)
以上のことから、イメージの再現性は、それが現す物の普遍性に関わるということが理解できます。つまり、より抽象的なイメージは、より普遍的な物を現す。より具体的なイメージは、より個物的な物を現す。例:文字の「木」は普遍的な「キ」を現す。写真の「キ」は個物的な「キ」を現す。
そう考えるならば、写真を文字の代わりに代用することが可能であることが分かります。
例えば、僕が見たのは、「(
)」です。
(こう見ると、個別的な「キ」ってのは、周囲の環境と切り離せないのが分かるね。)
冒頭の「tree」が「キ」を現す蓋然性は無いという話。これはPCに似ていませんか?つまり、PC上に取り込まれた絵が(1010110のように)コード変換(記号化)され他のPCに送られる、送られた先のPCで再びコード変換(現像)されPC画面上に絵として現れる。これは、両方のPCにコード変換の共通規則が存在して初めて出来うることです。
僕らが普段している会話というのも、これに近いのかも知れません。すなわち、記号化された言葉(言葉という記号化されたもの/この場合「t.r.e.e.」あるいは「k.i」という配列)を現像するための共通規則が言語体系には備わっていると考えることが出来ます。
そう考えるならば、「tree」という言葉自体には「キ」であることの蓋然性は無いとしても、ひとつの言語体系全体から考えれば、「tree」が「キ」を現すことは規則として(先験的に)確定していると言うことが出来るでしょうか。以上のことから、「tree」という言葉は記号化されたイメージ(「tree」という言葉によってリプレゼンテーションされたイメージ)であると考えることが出来ます。
「tree」のように、外部世界に対応物を持つ言葉もあれば、一方には概念を現す言葉もあります。しかし、概念というのも人間の頭の中で構成されますから、(一応)これも対応物を持つ言葉(記号化されたイメージ)と考えることが出来ます。(注:この部分、要検討)
このように、言語はリプレゼンテーションされたイメージ(=名詞)の羅列によって構成されており、文法とは、ある文章の中での、あるイメージ(=名詞)の意味/機能を決めるための規則なのかも知れません。