
どうでも良い話ですが・・・
『サマーウォーズ』を見ていて言いたくなっちゃったこと・・・
ウチ(といっても母方ですが)も旧真田家臣だったりしますね。
もっとも、あちらさん(サマーウォーズ)は上田藩(長野)
こっちは沼田藩(群馬)なんですが←潰れちゃった方(笑)
注:こっから↓はマニアックな話になります←歴史好き
(まあ、この手の武家来歴は話半分に聞いて置くもんかなと)
戦国期には上野国(群馬県)の土豪(地侍)になっていて、
○○城という(小さな)城を任せられていたという記録があるので、
それなりに有力な一族だったのではないかと思います。
○○=箱崎←検索エンジンを阻止しようとする人(笑)
この長野業正という人は知る人ぞ知る人物で、
「業正ひとりが上野にいる限り、上野を攻め取ることはできぬ」
と(かの)武田信玄が言ったという逸話があります。
ちなみに、のちに『剣聖』と呼ばれる上泉信綱(新陰流の祖)
元々、彼も長野業正の家臣だったのですが、
その高弟として(ウチの)一族の人間の名が史料に出ています。
希代の名将であった長野業正が死去したのち、
上泉信綱は上洛して室町幕府の13代将軍:足利義輝や
柳生新陰流の創始者:柳生宗厳の師となりますが、
史料によれば、上泉信綱が上洛した時、
↑の高弟は(師に着いていかず)土地に残ったとされています。
その人は現地で△△神陰流なる一派を開いたようですが、
残念なことに(現在)その流派は残っていません。
*△△=野田
話しているウチに、なんか年寄りみたいな気がしてきた・・・
一時期、自分のルーツを知りたくて調べたことがあったんですよね←根無し草(笑)
え~続けます←懲りない人(笑)
長野業正の死後すぐに箕輪城は武田家に攻略されるのですが、
そこに箕輪城代として入ってきたのが例の真田家でした。
おそらく、そこでウチの一族も真田家の傘下に入ったのではないかと←推測
ちなみに、↑は1566年のことですが、
もしかしたら、その後は沼田氏(越後上杉側)の傘下として行動し、
沼田城が真田家に攻略された時(1580年)に傘下に入ったのかも知れません。
(追記:どうも前者が正しいみたい→1566年/1580年)
まあ、なにはともあれ、こうして(めでたく-笑)
戦国の勝者(生き残り組)真田の家臣となる訳ですが、
ここからまだ苦労は続きます。←お話も続く(笑)
例の「上田合戦(2度に渡って徳川を撃退した)」では、
第一次(1585)は間違いなく守備方として参加していると思いますが、
第二次(1600)は寄せ手側(信之側)で参加しているかも知れません。
それか・・・沼田でお留守番をしてたか(笑)
ここで、ウチの一族も2つに分かれたようです。
僕の(母方の)方は(前にも言ったように)沼田に残った方でした、
ところが、例の「真田騒動」と、その後のゴタゴタで、
沼田藩は1681年には早くも取り潰しになってしまいます。
ここからは郷士(土佐の坂本家なんかと一緒ですな)として
幕末までやっていくようです。
山間部に生きる一族が戦国~江戸期をどういう風に生き延びたか、
なかなか面白い話が出来そうだなって気はします←書く気はない(笑)
ちなみに、祖父は□源太という名なんですが、(□=佐)
字を見て分かるように、源氏の長男という意味の名です。
ところが、祖父の子どもは娘ばかり三人。
男の子が欲しかったって話は良く聞きます。
で、末娘の長男である僕が
その祖父の名の一字を継いでいるのですが(どれかは内緒-笑)
それが余程うれしかったんでしょうね・・・
僕が生まれた時に僕の名を付けたモミジを植えたり←それで楓好き
特別扱いだったって話は以前もした気がします←それで(いつも)エラそう(笑)
だから、↑のような話を聞ける年齢になる前に
祖父が死んでしまったのは(とても)残念に思います。
僕が自分のルーツを調べたり話したりするのも、
僕が(すぐ)母の家の子みたいな顔をするのも、
そういう理由があるのかも知れません。
あ・・・ちなみに曽祖父(↑の祖父の父)は婿養子で来た人なんですが、
その実家というのがまた~以下略(笑)
え~・・・どうでも良い話に長々と付き合って頂き<(__)>
P.S.『サマーウォーズ』おもしろかった♪←だったらそっちの記事を書け?(笑)