story | 想像上のLand's berry

想像上のLand's berry

言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

 
 
イメージ 1
 
書いては見たものの・・・かなり極端な議論になってしまったかも知れません。
 
まあ、こういう立場もありえるということで・・・
 
あ、長文になりました<(__)>
 

 
第一章:「物語」

注:ここで言う「物語」とはフィクションではなく、
 
ストーリーという意味で用いています。
 
 
「物語」は至るところに転がっている。
 
今も世界のどこかで愁嘆場が繰り広げられている。
 
人は感情によって生きる生き物です。
 
「物語」に心を動かされるなとは言いません。
 
それは人が生きていく上で大事なものです。
 
しかし、物語は「一つ」ではない。
 

人は数字ではないと良く言います。
 
それはその通りだと思います。
 
しかし、数字という観点をなくしてしまえば、
 
この世界はどうなってしまうのでしょうか。
 
そこにあるのはミクロなもの(個々の物語)と
 
マクロなもの(物語の総体=数字)という関係です。
 

ミクロなものを無視して良いとは僕は思いません。
 
しかし、だからこそ、ある「物語」だけを象徴のように扱って、
 
マクロなものと直ちに結びつけてしまうことには違和感を覚えます。
 

とかく、「悲劇」は目立つものです。
 
そして、メディア化社会では目立つということが
 
(言い方は悪いですが)最大の武器になります。
 
ここで、僕は「悲劇」にあわれた方自身が
 
それを武器にしているのだと言っているのではありません。
 
それは(誰にとっても)武器となり得るという意味です。
 
象徴化された「物語」は、やがて当事者の手を離れて独り歩きを始めます。
 

ここで、拉致の話をしましょうか。
 
あれも「物語」ですよね。
 
そして、あれは保守が好んで使う「物語」でもあります。 

一方で沖縄を中心とした米軍関連の「物語」もあります。
 
それは、リベラルが好んで使う「物語」です。

つまり、あれらは象徴という名の武器です。
 
北朝鮮(政権)という不安定分子を排除せんがための。
 
沖縄から(ひいては日本から)米軍を排除せんがための。
 
(あるいは、いずれも国内世論を味方につけるための)
 
武器です。
 

30年前の米軍飛行機事故で亡くなられた方の(家族の)「物語」。
 
拉致でさらわれた方の(家族の)「物語」。
 
個々の「物語」として見た場合、
 
何故、他の飛行機事故や誘拐事件と取り扱いが違うのでしょうか?
 
簡単です。利用されたのです。象徴という名の武器として。
 

ミクロな観点からマクロなものを見ることは必要だと思いますし、
 
とても大事なことだとも思います。
 
しかし、感情というのはマクロな世界に持ち込むと
 
時として危険な作用を及ぼすことがあります。
 
なぜならば「物語」には感情を媒介にして
 
大衆を操るという側面があるからです。
 

僕が極端なことを言っているように思われるかも知れませんが、
 
かつて、日本帝国(に限りませんが)が
 
領土を拡大せんとする時に良く用いていたのが
 
「物語」を利用する手段でした。
 
「あっちで悲劇が起こった、こっちで悲劇が起こった」
 
と言っては、世論が沸騰していった。
 
(つまり、在外同胞を救わんがために出兵していった)
 
このように、「物語」は使い方によっては危険な武器となるのです。
 
今でもそれは変わりません。
 
「物語」は(あえて言います)大衆を操る一番良い道具なのです。
 
それは権力の側でも反権力の側でも同じです。
 

もちろん、人はみなそれぞれ自分の「物語」を持っています。
 
その「物語」の内容によって、自分が志すマクロな世界観が出来たりする。
 
マクロな「物語」もミクロな「物語」の積み重ねによって出来ていますから、
 
これは当然ありえる考え方ですし、僕はそれを否定しようとは思いません。
 
しかし、すべての個々の「物語」をハッピーエンドで終わらせられるほど、
 
この地球は広くはない。これは、かなり覚悟がいる考えだと思いますが。
 

ミクロな「物語」の積み重ねでこの世界は成り立っています。
 
そこに絶対的(正義)なんてものはない。
 
そこには個々には折り合わない(かも知れない)
 
数多くの「物語」があるだけです。
 
したがって、個々の「物語」を比較していく上で悪者を作ってはいけない。
 
これこそが、僕がもっとも留意したい点です。
 
個々に相反する「物語」をいかに折り合わせていくか、
 
それが「政治」だと僕は思っています。
 
 
第二章-メリット/デメリット
 
どんなシステムにも何かしら欠陥はある。
 
システムに不備が見つかった場合、
 
普通は(まず)システムをアップデート(改善)しようと思いますよね。
 
いきなり「システムそのものを捨ててしまえ(置き換えてしまえ)」とはならない。
 
システムを評価する時には、
 
そのシステムを保持していることによる
 
メリット/デメリットを問うことが大事になると思います。
 
 
たとえば、交通事故で亡くなった方は毎年数多くいます。
 
そこには「物語」だって沢山あるでしょう。
 
しかし、そこから「車を無くせ」という議論に進むのは
 
(大多数の人には)無理が感じられるのではないでしょうか?
 
(普通は事故の個別的原因を分析しますよね)
 
一方で、米軍基地の問題は「基地を無くせ」という方向に進みやすい。
 
なぜか?(負担が局所にだけ集中しているというのも勿論ありますが)
 
車と違って、メリットが「目に見えない」からでしょう。
 
では、米軍基地が日本にあるメリットは何か?
 
これは簡単です。日本が自国を守らなくて済む。
 
 
第三章-戦力
 
非常に単純な計算をしてみましょう。

国力が10の国があるとして、彼らが1の戦力を持った場合、
 
国力の1/10を費やしていることになります。
 
一方、国力が2の国が同等の1の戦力を持とうとすると、
 
国力の実に半分を費やすことになります。
 
 
かつて(大正~昭和)、軍縮の花盛りし頃、
 
「7割海軍」という言葉が世に飛び回ったことがありました。
 
米国の7割程度の艦船を持てば国が守れるという発想です。
 
軍縮に積極的だった人たちは、
 
軍縮条約を締結したことは日本が7以下に抑えられたんじゃなくて、
 
アメリカを10に抑えたんだと言っていました。
 
これは全く正しい(と僕には思える)考え方でした。
 
いざ日本が旧国連を離脱し軍備を拡張し始めると、
 
アメリカはその工業力をフルに回転させ始めます。
 
国家間の戦争とはそのようなものですし、
 
軍備は彼我の国力の相対関係で決まります。
 
 
つまり、僕が言いたいのは、
 
米軍と手を切って自主防衛に切り替えた場合、
 
無制限な軍拡競争に巻き込まれる恐れがあるということです。
 
現在、中国は毎年2桁の%で軍拡を続けています。
 
(別に中国が敵だと言いたい訳ではありません)
 
日本から米軍が出て行った場合は、
 
これ(軍拡)にマトモに付き合わなければならなくなりますが、
 
現在の日本の経済状態で、果たしてそんなことが可能でしょうか?
 
 
別に(軍拡に)付き合う必要は無いという考えもありますが、
 
外交も経済も結局はパワー・バランスによって決まりますから、
 
(外交が成立するためには、ある程度の均衡がどうしても必要となります。)
 
戦力の不均衡状態を生み出してしまうのは
 
(日本にとっても中国にとっても)得策ではないと僕は思います。
 
 
世界的には人口が増加する一方で
 
資源は確実に枯渇していきます。
 
世界は資源分捕り競争に突入しています。
  
討議(話し合い)によって問題を解決するというのは
 
確かに理想的だとは思いますが、
 
現実に国家間のパワー・バランスというものが存在している以上、
 
これを無視して話を進めるというのは
 
中々むずかしいのではないでしょうか。
 
 
たとえば、日本が武器を捨てたら、
 
間違いなく中国(官民問いません)は尖閣諸島に上陸してきますし、
 
韓国が武器を捨てたら、
 
日本は(こちらも官民問いません)竹島に上陸するでしょう。
 
それは侵略云々の話ではなく、利権の問題なのです。
 
戦争は国家だけが起こすものではありません。
 
 
たとえば、韓国が武装放棄をした先ほどの例で、
 
竹島に日本の民間人が上陸したとしましょう。
 
当然、そこでは衝突が起こる。(そこにもまた「物語」が生じます)
 
その民間人を保護するために自衛隊が出動することは
 
(日本は竹島を固有の領土と明言しているため)現在の法律でも可能です。
 
竹島を韓国軍が守っているからこそ(民間人が近寄れないからこそ)
 
逆説的ですが、平和が保っていられる。
 
戦力が均衡しているからこそ、安定が保っていられる。
 
戦力が均衡している間の束の間の平和が
 
僕らの世界の実態だと言い換えても良いでしょう。
 
 
終章-暴力
 
人間が歩こうとする時、そこには力が働いています。
 
人間が何かを持ち上げようとする時、そこには力が働いています。
 
その力が他人に向かえば、それは暴力になります。
 
 
暴力があれば、そこには警察機構が必要になるし、
 
それが国家間の話であれば、軍隊組織になります。
 
しかし、それ自身(警察機構や軍隊組織)が
 
自分たちに災いとして降り掛かってくることもある。
 
それをいかにして防ぐかというのが、一つの論点になります。
 
 
米軍基地がすべて自衛隊基地に置き換わっても問題は(必ず)発生します。
 
 つまり、「暴力を無くせ」という話ではなく
 
(人間が身体的な存在である限り、それは不可能です)、
 
いかに暴力と上手く付き合っていくかという話になると思います。
 
(=いかに社会/人々が暴力によって受けるダメージを少なくするか)