
第一章:オーセンティック
先の記事で質料はすべてオリジナルである(それ以外にはならない)と述べた。話を整理するために、質料が常にオリジナルであることを、「オーセンティック(真性)」であると呼ぶことにしよう。どのような絵画であれ(たとえそれが贋作であれ模作であれ複製であれ)、それ自体としてはオーセンティックである。ただ、ここで注意しなければならないのは、絵画というのも一つの概念/形であるが、何かがオーセンティックであると言う時には、そこから概念や形は取り払われなければならないということだ。形相は知性によって、質料は感性によって、捉えられる。この世界を構成するすべての質料がオーセンティックであるということ。「美」もまた感性によって捉えられる。論理は飛躍するようだが、これこそが「美」というものの源泉なのではないだろうか。
第二章:形相のオリジナリティ
一方で形相がオリジナルであるとはどういうことになるだろうか。前の記事で僕はすべての形相は源流/思考の模倣であると述べた。これを認めるとしても、少なくとも認識の上で、僕らは形相の類似性(あるいは非類似性)というものを感じる。模倣とは類似の前後関係の推測であるから、認識上は形相の間で(ある程度の)類似性を「感じるもの」と「感じないもの」の区別がある。これこそが問題で、僕らは認識と共に(切り離されず)生きる存在なのだ。かくして、「オリジナル」と「模倣」の区別が現実的に生じる。つまり、それは時系列の前後関係から見た形相相互の類似性の推測なのだ。類似性、この言葉が鍵を握る。この世界は三次元の世界だ。すべての形相は縦横奥行きいずれかの線を持っている。したがって、あらゆる形相が、ある程度は相互に類似している。そしてまた、すべての形相は質料のうちにのみ現される。個々の質料はそれ自体オーセンティックな存在だ。したがって、どんなに類似しているように見える形(複製)も100%同じにはならない。つまり模倣とはon(模倣)かoff(模倣でない)かの関係ではないのだ。それは程度によって表せられる。つまり、どんな形相も他の形から見れば、ある程度はオリジナル(似てない)であり、ある程度は模倣(似ている)である。
第三章:言葉
ここで言葉というものを考えてみる。現代社会において、出版される本は規格化されている。つまり、認識上、同じタイトルの本ならば、僕らには同じように見える。(ここではオーセンティックということは問題にしない。) 同じタイトルの本だけでなく、タイトルが違う本でも(同じ出版社の本ならば特に)フォント(言葉個々の形相)はそっくりだ。しかし、僕らはそこにオリジナルなものを見分ける。なぜか?言葉の並びが違うからだ。つまり、個々の言葉(形相)のオリジナリティは文脈(コンテキスト)に依存している。僕らの認識においてオリジナルというのは形相の構成/組み合わせに(も?)依存しているのだ。
注:この章、未完