注:この記事は「小説」ってことでお願いします。
『父と子』
僕の父は、日本でも屈指のエンジニアなんだと思う。若い頃、父と同じ職場で働いていた母が良くする話がある。母の部署で数ヶ月間、数十人がかりで解決できない重大な問題があった。その問題を解決するために配属されてきた父は、たった1人、僅か1週間で解決したらしい。「この人は本当の天才だ。」と、そう思ったそうだ。だけど、この話にはオチがある。問題が解決したのち、父は皆に向かってこう言い放ったらしい。「もっと早く僕に任せてれば、こんな問題、簡単に解決できてたんだ。」(それが事実ではあっても)当然、同僚たちから大反発を食らった。そんな風だから、(飛びきり優秀ではあったけれど)結局、人の上に立つ人間にはなれないだろうと、母はそう思いながら結婚したそうだ。
その後、父は、ある製品の開発メンバーの1人になった。というより、主要なメンバーだったんだと思う。というのも、大ヒットとなったその製品は、のちに専門の事業部ができ、父が、その事業部長に選ばれたからだ。僕が静岡から神奈川へと引っ越したのは、いま考えれば、まさに、その製品が販売される年だった。だから、その製品と僕の人生とは切っても切り離せない。僕の趣味も、良く考えれば、その製品がスタート地点だった。父の選択は、僕の人生に大きな影響を与えた。静岡から引っ越すことを打ち明けられた小学校1年のあの日、僕は「社長に言って(転勤を)止めさせてもらう。」と泣き叫んだ。その後もずっと、僕は心のどこかで、仕事を優先した父の選択を恨んでいたんだと思う。
例の製品は、一種の社会現象になり、その製品名は80年代後半の流行語の一つになった。そして、消費社会の象徴のように扱われた。父は、そのことが悔しかったんだろう。今、その製品は全ての部品を(ほぼ)100%リサイクルして再生産することが可能になっている。国内の技術賞を幾つか受賞したそのリサイクル・システムの開発を主導したのも父だった。その頃の父は、飛ぶ鳥を落とす勢いだった。「お父さんは部下が500人いる。」とか言って自慢してた。会社を信長軍団に例えれば、父はさしずめ柴田勝家かな?なんて、僕は妙ちくりんなことを考えた。その考えは妙に予言的だった。
例の製品は、2000年代に入ると、新しいタイプの製品との競合で、苦しい立場に追い込まれていった。正直、勝ち目はなかった。僕にまで、「どうやったら売れると思う?」と聞いたくらいだから、よっぽど切羽詰っていたんだろう。僕は、「オモチャとして生き残るしかないんじゃないの。」と、つれない返事をした。僕は、新しいタイプの製品にゾッコンだった。ここから先は僕の推理だ。新しいタイプの製品に圧迫され、例の製品の事業が縮小されることを聞いた父は、我が子のような例の製品を守るために(上層部と)徹底的に戦ったんだと思う。煙たがられた父は、まもなく子会社に追われた。形の上では栄転だったけれど、主流から外されたわけだから実際は左遷も同然だった。会社からすれば、父は時代に後れた人だった。
新しい会社で、父はどんな仕事をしていたんだろう。僕は良く知らない。新しい会社は、光学系医療用機器の分野が得意だという話を聞いただけだった。ここ数年の大不況は、父の新しい会社も襲った。リストラという言葉が、父の頭にちらついた。ただし、父はリストラする側の人間だった。あんな性格だから、憎まれ役を任せるには適任だったろう。だけど、生粋のエンジニアである父にとって、そんな役は面白くなかったに違いない。傍目に見てもつらそうだった。
おととしの頃は、当時の社長とウマが合わなかったこともあり、リストラ担当ということもあって、会社の居心地も悪かったんだろう。定年を迎える父は、会社を辞める気でいたし、周囲も別に止めはしなかった。しかし、「彼は功労者だから、辞めさせるな。」と、本社の方から言ってきたことによって、父の退職の件は一転してウヤムヤになった。事実、父は功労者だった。開発した製品や幾つかの特許、父の存在によって、会社(本社の方)は、おそらく数十億、いや数百億は儲けたかも知れない。その後、ウマが合わなかった社長の方が辞めて、新しい社長が本社から着任してきた。その人は、父のかつての飲み仲間だった。真相は分からないけれど、その人が手を回して(本人の意志とは無関係に)父を会社に残してしまったんだろうというのが、僕の推理だ。
新しい社長の元で、父は再び活気を取り戻した。それでも、やはり大リストラを仕切った張本人であるという負担が心から消えることはないらしく・・・父はこの6/30をもって退職することを決めた。会社の方からは顧問として残ってくれと言われたようだ。顧問というのは週一日だけ出社して、普通のサラリーマンと同じくらいは給料が出るらしい。父は半年だけ残ることにした。あれだけリストラをしたのに、自分だけ楽をして稼ぐ訳には行かないのだそうだ。
いつから父は人の心を考えるようになったんだろう・・・そう考えると、僕は自分のことが思い浮かぶ。僕が学校へ行かなくなった頃、例の製品は絶頂期だった。それまで、挫折らしい挫折をしたことのなかった父。我が子の挫折、そして自らの子育ての失敗。相当、悩んだろうと思う。自分の何処がいけなかったんだろうかと・・・父は(母もだが)僕が学校へ行かないと詰ったことは一度もなかった。おそらく、彼らは、自分自身を相当責めたに違いない。父は僕にそんな話は絶対しないが、母の話によれば、顧問の話を断らずに半年だけ受けた理由は、僕のことだったらしい。僕が大学院に行ってもお金の心配をしなくても良いようにと。
例の製品は、未だに細々と売れ続けている。ある日、コンビニで「未だに、お父さんが作った世代の製品が店頭に並んでる。」と半ば苦笑し、半ば誇らしげに語っていた。
僕は自分が父の人生に与えた影響を知っている。あすは父の日だ。僕は「育ててくれてありがとう」なんて、決して言わないだろう。ただ、「父の日おめでとう」って、たったそれだけ。僕に出来るのは、自分が精一杯生きることだけだ。2週間ほど前、僕の成績表が大学から届いた。父は、その成績表を大事そうに自分の机の引き出しにしまった。