サロメという主題 | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

 
昨日の演習でも発表の感想を求められまして、
 
相変わらず僕は上手いことを言えず・・・
 
と、いうわけで「flowinvainさん次の日に感想を言う」のコーナー
 
え~・・・僕だけ感想はペーパーで提出でも良いですか?(笑)
 
 
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『サロメという主題』
 
現代というのは死から遠く引き離された時代だと思う。
 
日常、僕らが暮らしていて死を感じることは殆どない。

かつては違った。
 
日本には『さらし首』なる風習があったし、
 
フランスでも『ギロチン』という公開処刑があった。
 
洋の東西を問わず、その手の見せしめは数多く存在した。
 
旅の途中では、力尽きて倒れた人間が転がっていたりした。
 
人は、いやおうもなく日常的に死と向かい合って生きていたのだ。
 
クラナッハが描いた≪サロメ≫を見た当時の人の反応と、
 
現代人である僕らの反応は違っていて当然なのだろう。
 

現代は生と死が断絶している。つまり、死は隠されている。
 
サロメという主題が現代において持つ意味も、
 
このようなものを暴きだすことにあるのではないだろうか。
 
つまり「生と死/過去と現代の断絶」「隠された死」を。
 
斬り落とされた洗礼者ヨハネの生首は、まさに断絶を象徴している。
 

『メメント・モリ(死を想え)』の主題においても、
 
死というものの親近性は強調されている。
 
しかし、そこでは死は「やがて」訪れるものである。
 
つまり、そこには時間の経過/猶予がある。
 
考える(悔い改める)時間が、人には与えられている。
 
 
また、同じような主題である『ユディト』においては、
 
斬り落とされた生首の意味合いが少し違ってくる。
 
つまり、あれはより性的な意味合いが強いのだ。
 
ロザリンド・クラウスなどのジェンダー論的美学者だったら、
 
『ユディト』が斬り落としているのは---なんだと言うだろう。
 

だが、『サロメ』は違う。
 
そこにあるのは、まさに生と死の断絶なのだ。
 
血の滴るヨハネの生首、うら若き女性サロメの姿。
 
ここに(少なくとも現代的な意味での)教訓はない。
 
ただ暴きだすのだ。現代の姿を。生と死の断絶を。
 

*サロメ:新約聖書に見える女性。母に教唆され、踊りの褒賞として継父であるユダヤ王ヘロデ=アンティパスにバプテスマのヨハネの首を求め、これを殺させた。-大辞泉-
 
*メメント・モリ:《なんじは死を覚悟せよの意》死の警告。特に、死の象徴としてのしゃれこうべ。人間の欠陥やあやまちを思い出させるものとして、ヨーロッパのルネサンス・バロック期の絵画のモチーフに用いられた。-大辞泉-
 
*ユディト:旧約聖書外典の1つである「ユディト記」に登場する女性。敵将ホロフェルネスに取り入ったのち寝所で首を斬り、包囲されていた自らの街を救った。