環境美学と写真(レポート) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

 
昨年度の成績が発表されたので、
 
昨年度に作成したレポートを公開し始めたいと思います←はた迷惑な企画(笑)
 
第一段は美学(後期)テスト用のレポートです。


 
『環境美学が僕の芸術観や審美眼にどのような変化をもたらしたか』
 
 僕は写真を撮る。そして、カントの言う無関心性が美を掴む手段だと思っていた。つまり、対象物の意味や脈絡から切り離されてから初めて写真は美しくなるのだと。しかし、シャッターを切るという行為が無関心性と結びつくのだろうか。この世界は感覚の世界だ。環境美学のテキストでは、自然鑑賞は全感覚を動員し、見晴らし点を特定しないと述べられていた。つまり、美は僕にのしかかってくる。目を瞑っても、耳を塞いでも、まだ美はそこにある。(この考え方に従えば)のしかかってくる美に対して、自然を視覚のみによって捉える風景写真の美は常に劣っていることになってしまう。
 
 それでは、写真における美とは何だろうか。写真は記憶に似ている。あの景色、あの風景。(僕にとって)記憶の中での自然は、写真のように心に焼き付いている。記憶の中の景色には感情が貼りついている。なぜならば、記憶に残っている景色は、強く心を揺り動かした景色であるからだ。シャッターを切るという行為は、記憶するという行為に似ている。美は感覚によって捉えられるが、感覚はそれ自体切り離されて存在している訳ではない。写真における美の源泉は、むしろ感情の側面にあるのではないだろうか。カントの言う無関心性とは正反対の結論のようだが。