
『詩的言語』
デジタル的なもの(形や配列)は、
普遍性を持っているが故に伝達可能(コピー可能)である。
従って、おおよそ意味はこのベースにのせて語られ得る。
これはしかし、意味のすべてがデジタル的であるということではない。
このことは、アナログ的なものが意味を持ち得るということを否定しない。
言語とは一つのシステムである。
それは自己を拡大するシステムである。
人は、そのシステムの中で会話を成立させる。
このシステムを拡大するものは詩である。
ある事象(もの)にある音が与えられる。
これは、ある事象がある音の形を与えられて、
言語システムに取り込まれたということを意味する。
「~が~のようだ」という方法(比喩)で、
詩は事象に形を与えて(名付けて)いく。
詩の本質はまさに形を与えるということにあるのだ。
人は詩を使って事象を言語システムに取り込んでいく。
言語システムの外に位置しているが故に、
生まれ出た全ての詩は理解を越えている。
それは、ただ感じ取れるのみである。
言葉が言語システムに取り込まれてのち、
初めて人はその言葉を(デジタル的に)解するようになる。
取り込まれた言葉は言語システム内に位置を与えられる。
与えられた位置は文脈(配列)によって参照できる。
言語システム内の差異を読み解くことで、
人は言葉に与えられた意味を解するようになる。
言語システム内に位置を与えられることで、
その位置判断によって意味を解するようになるのだ。
(言語システム内の位置が言葉に意味を与える。)
かくして、言葉というスプーンを使って
アナログの海から意味を汲みとることが可能になる。
↑上手いこと言おうとする人(笑)
かかるがゆえに、
コミュニケーションとは個人個人の言語システム間の
位置情報の共有を前提とするものである。
しかし、その原点に理解を越えたもの(詩)を据えているが故に、
言語システムは(そもそも)矛盾を内包したものだとも言える。