レーニのルクレティア | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

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Guido Reni
≪Lucretia≫c.1636-1638


グイド・レーニの《ルクレティア》は素晴らしい。

国立西洋美術館に常設展示されている作品の中でも、

この作品が「明らかに」「図抜けて」素晴らしい作品だと思う。

もっとも、そう思っているのは僕だけかも知れないけれど(笑)


圧倒的な艶かしさ。

近づいて見ると覆い被さるような白。

一際白く描かれた左手が絵に立体感を与えている。

シーツの輪郭などは若干のボカしが入れてあり、

ソフトフォーカスのような効果を生んでいる。

結果として、白い白いルクレティアの肌が前面に押し出されている。

写真でいう背景ボケの技法を(フェルメールと同じように)使っているのだ。

そして真上を向いた目。

遠く離れて見ると裸体だという感じを受けない。

肌のあまりの白さによって、光の衣を纏っているように見えるのだ。

なんという聖性。


前世紀初頭に古典主義絵画の評価が零落した結果とはいえ、

西洋美術館はよくこんな作品を買えたなと思う。

東洋の美術館にレーニが所蔵されているなんて

150年前だったら考えられないことで、時の流れというのは恐ろしい。


それでも、この絵が好きな時に見られるという幸せを素直に喜びたい。

僕にとって、レオナルドの《モナ・リザ》以上に価値のある絵なのだから。



*追記1(『ポンペイ展』の感想より)2009/11/29


「神のごとき天才」とゲーテが呼んだというように、

この美術館に並んでいる巨匠たちの中でも、(レーニが)ずば抜けて巧い。


ルクレティアの物語は悲劇なのだが、同時に壮絶な話でもある。

ここに描かれているルクレティアは、そうした壮絶さを微塵も感じさせない。

そこら辺に、20世紀に入ってレーニの評価が零落した原因があるのだろう。


半ば上気したような表情のルクレティア。だが肉感的な感じは受けない。

これがティツアーノならば、(主題と外れるが)より魅惑的に描いただろうし、

ルーベンスならば、グロテスクな程に官能的に描いただろう。

肌理の細かい白い肌。アングルの描く人形のような女性とも違う美しさ。


レーニは、女性にはほとんど興味が無かったらしい。

そのせいなのか、この絵にはほとんど性的な要素が感じられない。


近づいて見てみると、髪などが一本一本細かく描かれている訳ではない。

その代わり、見せ方が非常に良く考え抜かれているように感じる。

レーニというのは、絵が人にどう見られるかを良く知っていた人だろう。


手許にある短剣で、自らの命を絶つことになるルクレティア。

でも、どうだろう・・・この短剣、ただのオブジェのように見えはしないか。

彼らの絵の中に、現実とはかけ離れたものが描かれているとしても・・・

真実と自由が、彼らの目指した美とは程遠いものだったとしても・・・

それでも僕は・・・ラファエロやレーニが大好きだ。



*追記2↓(『カポティモンテ美術館展』の感想より)2010/7/30


『Catharsis』


そして、僕はまた

≪ルクレティア≫の元に惹かれていく。


あの絵はなんだろうね・・・

ひとつだけ異質なモノが混じってるような、そんな気がするんだ。


エロスのない艶めかしさ。

性を失った肉体。

欲望を消失した視線。


この世には白と黒しかないんだと言わんばかりの、あの白さ。

あれほど白というものを強烈に感じる絵を(僕は)他に知らない。

僕はきっと、あの白さに惹かれてるんだ。


全てが記号に変換され欲望の対価として換算される(この)社会。

美術館の中だって例外じゃない。

僕はきっと・・・(そんなことにウンザリしているんだ。)


あの絵を異質に感じる理由も「そこ」にあるんだろう。

あの絵からは欲望の欠片も感じられない。

僕は(あの絵を目の前にした)

その感情を「欲望のCatharsis」と呼ぼう。