イデア。そのデジタル的なるもの。 | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

 
注:本日、flowinvainさんの言葉遣いが変です。


イデア*1ってのは形でしょ?

つまり、それはデジタル的なもの。

形ってのはコピー可能だからね。

言語とか数字がイデアに近づく道だと考えられてきたのも、

結局のところは、イデアがデジタル的なものだからなんじゃないかな。


でもさ、

言葉や数字は世界を記述することが出来るけど、

世界を記述し尽くすなんてことは出来ない。

現実世界がイデアの劣った模倣なのではなく、

イデア自体が現実世界の劣った模倣なのでは?


だからさ、

美のイデアなんて存在しないんじゃないの?

美っていうのは形に宿るもんじゃない。

美って、むしろアナログ的に個物に宿るものなんじゃないのかな。*2


そこが美の面白いところでさ、

美はそれ自体アナログ的なものなのに、

デジタル的なある種の普遍性を持っているように思えるんだよね。

美はコピーできないんだから普遍美は存在しないんだけど、

個物的な美は(それ自体)普遍性を持っているように思える。


それはつまりさ、

言語(知性)によらない感性の普遍がありうるってことになるのかな。

でも、それをデジタル的(言語的)に捉えようとすると

それは途端に失われてしまう。

美の本質はアナログ的なところにあるからね。


だからさ、

現代アートが美と無関係なように見えるのはさ、

それはつまりさ、言語的に考えすぎてるんだよ、美を。現代アートはさ。

(注:flowinvainさんは現代アートがキライです。)


美のイデア(形)なんて求めちゃいけないんだよ。

そんなものは初めから存在しないからね。

美っていうのは、もっとこう・・・個物に宿るもの。

だからさ、

人間が美しいんじゃない。キミが美しいんだよ。



う~ん・・・

最終的に口説いてる人みたいになってしまった・・・

慣れない言葉遣いをしたせいかな(笑)


脚注

*1イデア:《見られたもの、知られたもの、姿、形の意》プラトン哲学で、時空を超越した非物体的、絶対的な永遠の実在。感覚的世界の個物の原型とされ、純粋な理性的思考によって認識できるとされる。中世のキリスト教神学では諸物の原型として神の中に存在するとされ、近世になると観念や理念の意で用いられるようになった。-yahoo!辞書-

*2「美が個物に宿る」という言い方に関して・・・flowinvainさんはいつから美的価値実在論者になったのかと思われるでしょうが←別に誰も思ってない
 実際のところ、触れつつ触れられるの記事でも書いたように、僕はその二項対立(認識論ー実在論)は無意味なんじゃないかと思っていて・・・触れつつ触れられる、つまり、問題は応答の可能性であって、「僕」は「世界を認識する主体、世界によって認識される対象」として、同時に構築される。触れつつ触れられる。この主体=対象の共時性が世界の客観性として担保され得る。今の僕の考え方はそういう感じです。いいでしょ♪←子ども(笑)